Lesson#250;Put the Needle on the Record.

僕らは“答えだ”と思わせるものと、答えの違いをきちんと区別できているだろうか?
もしも前者を導き出しプレゼンテーションする手法・能力だけが取りざたされるようなら、そんなところ、僕にはあまり気乗りしない世界だ。
いろいろなものがなんだかわからないまま投げ出されて、うんそうだねそういうのもありなんじゃないかな中にはそうじゃないって言う人もいるだろうけど完璧を求めていたらきりが無いからねぼくはう〜んどっちともいえないんだよね立場上個人的な見解で許されるならうんありだとおもうよ、と言ううつろな合意の上に成り立っている。
わからないものがわかった瞬間の快楽は、脳科学者の何とかさんが言うように格別である。もしその瞬間が“答えだ”と思わせるものとの出会いの瞬間でしかなかったとしたら、仮初めの快楽は麻薬的なそれに似て中毒症状を引き起こしてしまうだろうか、本質的な答えのもつものと違って。


Lesson#249;ハーフ・リラックス/ハーフ・ストレスドな関係。

僕らは安易に痛みによって繋がろうとする。
共有できる悲しみについて親近感を覚え、お互いにその傷をアイデンティティにもしくはその人の個性として捉えている。ハード&タフな現実社会は容易に人の身体・精神を傷つけるが、それを克服するために営々と努力を重ねてきた。それなのにいつまでも血がドロドロと流れ出す傷や、朝起きても抜けきれないだるさが僕らを襲う。

症状や傷の可視・不可視(“なんとなく”と言った第六感的な知覚の可能性も含め)の問題ではなく、治癒するべき病や傷をそのままにし、それに依存するような構造自体に問題があるとするなら、根治は絶望であり、それは“一生付き合って行く”類のものだろうと思われる。

悲しみに泣き濡れている姿が美しいのは銀幕の中もしくは血汗飛び散る板の上もしくはうっすら臭気を持った紙の上のインクの中だけであり、せせっこましい液晶だのなんだに映し出される文字列など中にはめったに無いのだ、などと言うのは往時の活動ファン乃至アングラ演劇ファン乃至文学青年のように思われるし、そう言う類の人々の憤りすら今は失われ(実際にそう言った人々が他界する、と言う形で)つつある。

僕らはあふれかえったものを大量に消費することでこの時代のスピードを、つまり生を実感しているが、もう少しじっくりと一瞬一瞬を丹念に味わうことが出来ないのだろうか?生涯に消費する、活字、映画、テレビ番組、音楽、紡績繊維、化粧品(男女問わず)、金属、エレクトロニクス、電力、化石燃料、情報、水、カロリー、金銭は膨大すぎ、消費することにかえって疲弊させられ舌は、目は、鼻は、耳は、肌は完璧に駄目になってしまったんじゃないのか?

そこにある単純な悲しみに対しての反応さえが愚鈍になっていく。
あまりの生々しさにきちんと対峙できずただただ呆然とするだけ。
まだ泣き喚いたり逃げ出したりするほうが健全のような気がする。
恐ろしい。

僕らのやり方では、無駄に血が流され続ける。
悲しみは終わらない。
恐怖が生み出される。
魂はすり減らされる。

絶望とさんざ忌避し続けた死だけが待っている。

Lesson#248;チョコレート・ミント・アイスクリーム

普通のアイスクリーム以上の冷たさ
それはミントのせい

普通のアイスクリーム以上の甘さ
それはチョコレートのせい

過剰に人工的な刺激
それでも餓えや渇きは癒しきれない

快適な身体
それはヨガのおかげ

充実した日々
それはやりがいのある仕事のおかげ

あの人に教えてもらったことのすべて
それでも餓えや渇きは癒しきれない

前向きな気持ち
それは薬のおかげ

落ち着いた気持ち
それはカウンセラーのおかげ

自分で作り出し不安の解消
それでも餓えや渇きは癒しきれない

Lesson#247;近代的な熱帯の夜(宵の口と夜明け前)。

雨にぬれる午前四時の町並みがどうしてこうも美しいのだろうか。
地上七階の窓から見るそれは、見上げるでもなく、見下ろすでもなく同じ目線で見渡せる。
以前にこういった風景を見たのは一年くらい前だったろうか。
高架を走る電車の中からこれから闇の深まっていく、雨降る街を眺めた。
近くの建物は速く、そして遠くの建物はゆっくりと横に流れ去っていく。

こういうときはいつも同じで心が空っぽになってとても落ち着く。
いつも何かがぎゅうぎゅうに詰まっている僕の心は、窮屈で騒がしく暑苦しい。
空気は澱んでいて、そのせいで息が詰まりそうだ。

雨の降った後の空気は澄んでいるように見える。
太陽の光も、幾分鋭い気がする。
そんな雨雲の銀縁の向こうの風景に魅かれているのだろうか。
メランコリックをきめ込んだ僕は。

ガラス越しに見る雨に打たれる世界は、ガラスのこちら側とは違う。
傘やレインコート無しには濡れてしまう。
これが母なる海を離れた業なのだろうか。
僕らは必ずしも、水には強いわけではないのだ。

ぬくぬくとした安心感に満ちた室内や、車内。
ハードレイン・ゴナ・フォール、と言うには慈愛に満ちた天の恵み。

子供の頃の嵐の夜のそわそわした感じはまだ見ぬ不安への憧れだろうか。

Lesson#246;製品に対する責任を製造者に保障させる制度。

 あくまで実数比較ではない、僕個人の見解と言うか思い込みとして、東京芸大を卒業した器楽奏者はその道のプロフェッショナルとしての実力が認められているとして、それゆえの社会からの評価もあるでしょう。雇用の機会とか。
 一方、総合大学における一分野を卒業した多くの人間には、その道のプロフェッショナルとしての実力が認められているとして、それゆえの社会からの評価もあるでしょうか?雇用の機会とか。
 そりゃ、音楽の世界も厳しい。のでありますが、後者の多くは学生時の専門性が生かされる形ではなくその後の人生が決定されます。これは個人の問題だけではなく、社会的な投資としても、かくあるべき形なのでしょうか?
 僕の敬愛するミュージシャンの方は外語大を出ながら、現在永住権を獲得するための言語の習得に四苦八苦なさっています。少なくとも芸大の音楽科の卒業者が音楽のスペシャリストであると言う認識を顧みるに、外語大の卒業者が言語のスペシャリストではなく何なのでしょうか?
 こういった話が議論の飛躍であり、一概の双方を比較できることではないのですが、社会通念上、大学と言う似たような構造をとりながらも、結果としての産物に大きな開きがあることは、なんと言うか釈然としないものがあります。

Lesson#245;今日行ったらきれいさっぱりなくなっていました。

猫はフライドポテトを食べない。と言う事実。
と言っても、姪浜駅近くの筑豊銀行の駐車場によく居る猫についてですが。
しかもロッテリアのふるポテの味をつける前のものだったので、あ〜やっぱり、味付いてないとだめか、猫でも。グルメだな。っーか、もしかしておなかいっぱいだったりすんのか?おまえ。こら、上に載んな!あ〜、置いてったらハトに食べられちゃうよ。

安心感の先物買いが定着し、僕らは10年後、20年後、30年後の明確なビジョンを与えてくれる人生の選択肢を取らざるを得ない。そのときそのときの自分がおおよそ見当が付く、そのとき自身がおかれている状況も、そのとき自身が望むことも、そのとき自身に必要とされるものも。
 僕にはそれが全く持ってわからない。
 

今日、あきらかに日本に来て日の浅い外国の方にケータイの使い方を、バスを待っている間に聞かれたので、微妙な英語で説明しました。そのとき相手がケータイを持ったまんまその上に重ねるようにして僕の手を置いて実際に操作しながら教えたんですが、今考えるといきなりそんなことする僕はどうかと思いますね。フツーの日本人の若い女の子なんかには絶対しない。と言うか、出来ない、してはいけない、気がします。やっぱり外国の人のほうがオープンなんですかね。

Lesson#244;コピーとオリジナルとアートと消費をめぐる言説(1)

 コピーとオリジナルの問題はベンヤミンの『複製技術時代の芸術』にその本質的な部分が触れられており、さらにアートの要素を加えればアウラ(オーラ)の概念にも触れることになる。

 現代社会の消費について考えるに付け、避けては通れないコピーの問題は何もコピーライトだけではない。多くの消費者がほぼ同一に見られるコピーの商品、サービスに対して対価を払い結果として得られる充足や満足を共有しているのである、と言う前提はここ100年の概念であり、個々人の個性と言う神話・寓話・撞着への寛容が広まったのはここ2〜30年である(日本において)。

 この国では活動の多くは消費に包括される。それ以外の活動は、活動として日常に定着せず、特異なものとして存在する。声高に政治を叫び、デモ行進を行うことやボランティアで誰かを救済するような活動は、TVで見たり誌上で確認する行為でしかない。多くの活動は悲しむべきに、消費(生産)活動に内包され僕たちが注視するものは¥マークの付いた値札のみになってしまった。

 価格を有しないものへの判断はいつまでも下ることがない。下せない。その大きな不能感に苛まれながら、僕は文章を書く。中古のCDを買ったり、1000円の日に映画を見に行ったり僕の消費活動は乱れた価格設定の中にある。それ故にほかの人間とは共有しがたいものを内部に形成しがちだ。そしてInternet Explorerのお気に入りに入っている多くの女性アイドルたちのブログの巡回は、現実の前にある夢の痛みが視覚化され、大きな悲しみを誘う。

 退屈だ、楽しい、気持ち悪い、美しい、グロテスク、かわいい、怖い、格好いい、痛い、気持ち良い、ダサい、そんなものに埋没していく現代的な病理。それは集団の、又は個人のものである。発症しているのかいないのか、治癒しているのかいないのか。それらが不明なまま、時間だけが過ぎていき一方的に拡大する事が前進であるとするなら、病理もまた拡大するだろう。

 価値観の違いを口にすれば簡単だろう。しかし多様化はこの時代になって初めて幻想であることがはっきりした。強迫性による収斂が結果的に型を生み出したことに対し、絶望するしかなく途方にくれていては何も起こらない。

 世界は個人にとっても集団にとっても何かの創造から始まるべきだ。