Lesson#256;リーン・エアー(何も無いそこに寄りかかって)。

ただ言わないだけである。
暗黙の了解とはそう言うものだろうか?
僕のタナトスとはスケートボードに乗ること。
自殺を避けるためには、この身を危険にさらす必要があるから。

一生かかっても理解し得ない。
それは人が個人として別たれている以上、しようの無いこと。
故に多くの苦痛がある。
しかしそれが権利と義務の合わせ鏡のようにあるからこそ、お互いの存在が理解できる。

こんな孤独に僕たちを作った神様が憎い。
神への罵倒がどれほど罪深いことか、よく知っている。
それでも彼にFuckと言いたいのだ。
こんなに孤独に苛まれると。

僕らはカテゴライズ、ネーミングと言ったことを行うとき、各々の差異について着目する。
と、同時にそれが存在しなければ行えない。

なぜこんな言葉が出てくるのかわからないが、
きっと僕の両親は僕のことを殺したいと思っている。
と、ふと浮かんできた。

波に揺られているカニの死骸を見ながら考える。
このカニの一生とはどれほどの長さがあったのだろうか?
一年だろうか、一ヶ月だろうか。
と言うか、どこからどこまでが彼の一生だったのだろう。
小さな、小さな生物になるほど生と死の境があいまいになってくる。
存在と生死が同一なことのように。
何を持って死とするのかは科学が進んだからこそ、よくわからなくなってきた。
意思が無くなったら?
世界に影響を及ぼすことが無くなったら?
今日見たカニ、その身体が水中で朽ちていく瞬間、それは確実に世界の形を変えつつある。
もしかしたら生きていた期間以上に長くそれに時を必要とするかも知れない。

なぜ痛みを感じながらも続けていかなければならないのだろうか?