Lesson#243;キャラクター柄喪服の半額セール。

ゼクシィー♪ゼクシィー♪ゼクシィー♪
いや、別に結婚とかはね、考えてないっすけど。
え〜、恋人たちの数だけ、二人の間柄を表す言葉があればどれほど豊かになることでしょうか、語彙的に、精神的に。僕の友人に「セフレと恋人はどう違うのか?」などと問うて来る人が居るのですが、これこそ現代的な病苦でしょう。ノーマニーの友好的なセックスと言う現象のみが同一であり、「恋人です。」と「あぁ、あの娘?ただのセフレですよ。ははは。」との間には大きな隔たりがあるのは、(無根拠な乃至知覚されがたくあやふやな乃至気持ちの上でのものであったとしても)事実です。

(それぞれにあったスムースな関係であるが故に的確な表現が見つからずどうあらわして良いかよくわからない関係、ではなく)大多数の人に共通認識されている終着点としての幸福像に執着していることが明らかである現代社会において、それが誰のせいであるかどう言及しても被害者意識だか責任転嫁だかなんだかつまんないものまみれにしかならないのでしませんけど(お互いが認め合うんじゃなくって、否定しあった結果の集合意識なんてものがメインストリームって言うんなら、チクショウそんな何の価値もねぇクソまみれなもんなんてうっちゃってやんよ、そんなのだからセフレと恋人の違いがわからなくなったりすんだよ。ああいけないついつい本音が・・・。もう本当自分が情けないです・涙)そう言ったものに個々人をフィットさせていくってのはそれ自体ハードでタフな作業になって思考停止・判断保留・感覚阻害がおきやすくなります。

もう「しあわせってなんだっけ?」で疲弊してしまい、安易な安息感に飲み込まれて、気が付いたら目の前には三途の川状態です。国民全体が100%それなら幸せかもしれませんが個人においてはそうでない部分があって、集合としてはそうではない人たちがいて、所々でめんどくさいことになっていって、気が付いたら街中で刺されるんじゃないかとおびえる毎日になってしまいました。ただ単にヤバイ、と言う側面を見て言うならやくざな人々の暴力も同じかもしれませんが、夜の街の有する暴力性とああいった無差別殺人ではその本質が大きく異なります。

ゲットーの生きることに真剣な子供たちの顔と、住宅街の害のなさそうな笑みを浮かべた子供たちの顔には、その真意が読み取れないと言う点では同じでも、真っ暗闇とホワイトルームの差があり、それが暴力性の違いであると思います。

どうやら外面がいいのが二宮家の特徴のようです。本当は苦虫を噛み潰したような家庭内情であるにかかわらず。

Lesson#242;『スウェディッシュ・ラブ・ストーリィ』を観て。

少年期の恋愛における喜びや悲しみやむず痒さや痛みや何かが美しく表現され、陶酔させられる。
なんてへらへらさせられていたら、もうすごい展開でした。ラスト15分は『〜ラブ・ストーリィ』なんて言うタイトルからは予想だにしない不条理ギャグの応酬。確かに暗雲は開演時から立ち込めておりましたが(字義通り真っ黒な場面から始まる。と言うか前奏曲なのか?あれは。犬の鳴き声やバイクの音はヒステリーそのもの)それら一切合財を最後にぶちまけるのは、あきらかに“あぁ〜めんどくせぇ〜このはなし、おわらせらんねぇなぁ〜もういいいや”と言う放り投げ感が満載です。
しかーし、コリアン・ラブ・ストーリィに対してああこんなものでしょう、ちょっと90年代日本を感じさせたり、徴兵制ゆえの俳優の年齢的な微妙な感じとか、可愛いんだけどギリギリでちょっち惜しい女優とか、古くさい考えの母親(きっと母系社会なんでしょう。オモニーが重荷。うぉ〜くだらねぇ・笑)とか、日本におけるタブゥーがどくどくと脈打って噴出している様が、さらにそのメインストリーム感ががっつり掴むんでしょうね、おば様の心を。え〜、ヲタク文化と一緒です。
と言ううわけでほぼ40年前の北欧におけるラブ・ストーリィのスタンダードが実はこういったものであった、と言われてもああそうかと言うしかありません。
でも、すごいぞロイ・アンダーソン監督!26歳でこれは撮れない!!

Lesson#241;コールドターキーの結合双生児。

Hip-Hopの換骨脱胎がここでは行われている。と言って良いだろうか。
全体がビートとフロウの集積であることが確かなこの音楽ジャンルにおいては、それが一種のカリカチュアとしてこうした形のHip-Hopも抽出からの再構築が可能となる。明確な律動感覚が感知でき、流麗な語り口をもって何かを語りかけられる。
音楽的に編集されたラップの聞き取れない言語としての可能性は、それがサウンドに回収されることによって非常に大きいと思われるが、質は演劇などの分野で召喚される方法と大きく異なる。それは、後者は聞き取れないことを表現として思惟しているからであり、前者は結果に過ぎない。そういった意味では言語についてはやはり、音楽などより演劇のほうが先んじていると言えるだろう。
形式や構造と言うものはそのままに、中身の一切合財を入れ替えてしまう。結果できあがったものが奇怪な怪物で、頭から食い殺すかまた母胎に押し込めてしまうかしてしまうようなものであっても、父権教示型の世界ではない個人の消費の範囲内―マスメディアは父性隆盛型でありこういったものを許せない、と思われます―では、受け入れられると思います。
ただ、トラック11『Don’t Mock the Quock』における、プリペアド・ピアノの音色がなんだか内橋和久さんのギターのようでびっくりしました。

I'm Ok You're Ok

I'm Ok You're Ok

Lesson#240;『ご近所計画』Performed by ちくは & 素体ル

 あの空間がある生き物の臓器であるとするなら、僕が想起するものは精子嚢である。それは僕がウディ・アレンのファンだからだ。つまり違う映画監督を信奉する人なら―たとえばそれがフェリーニであるなら結果は死後の(または夢の)世界であろう―当然変わってくるだろう。そして、あの空間が(僕にとって)白昼夢の字義通り夢のようであるのは、それが夢の実現化であり、眼前の現実に投射された時点でそれは夢の神性を欠き、勢い映画と言う現実世界の夢―白雪姫、シンデレラは映画であり、東京ディズニーランドは夢の王国だ―に強い親和性を示しだす。体験である以上に映像的であったのだ。
 白布で包まれた空間を意識すれば、それを支配したい欲求は輪郭線のコントロールとして現実世界では披露されるだろう。それが可能だったのはただ一人(髪をライアーライアーに出てくる女性のようにセットしていた人)であり、彼女を頂点とするヒエラルキーが空間内に存在し、あたかも彼女が世界の母であり、そのほかの人間がせきあの一構成要素であるかのような個人的解釈も可能だ。それが空間の中心線を意識するならあの演舞のシンメトリーが、生来ヒトは性的な臓器が左右対称でありながら僕はそこに後天的に外科手術(睾丸の一方の切除)による非対称を有しているがゆえに完全な、セクシャルに敵対する(故にジェンダリックには強い憧れを抱く)性である女性性・母性を意識させられるのは、仕方が無い。
 結果として暴力的だ。と感じた理由は抗し難い自然の摂理を象徴する符合を多く読み取ったからで、卑小な個人にとって自然は猛威なのである―フィジカルにもメンタルにも―と言う無意識に根付いた恐怖が大きな一因である。

 そして映画が引用されるのは場のマジックだ。
 本来が映画のための場である。
 そして台詞がプイグのように、包括しての関連性しか見出せないのは、プイグ自身が脚本家であったことによると思われる。
 何よりもイフクさんのポップ=ボレー=コーン=キックがすごかった。と思います。
 そして同じ演目名が付されているのは、微妙に違和感がありました。
 ネーミングはどういった過程でヒトが得るに至ったか?と言う認識論に立ち返る問いが、また頭をもたげる。
僕の心の中に。

Lesson#239;ガス・ヴァン・サント監督「パラノイド・パーク」を見て

 単純にですね、椅子が良いのですよ。落ち着くのよ。ミニシアターがお洒落〜、とかじゃなくて。きっと僕が一番多く映画を見た映画館がそこだからなんでしょうね。しかも思春期に。そりゃ、最も落ち着く場所にならない筈が無い。さらに映画館ですからね。日本における娯楽の一頂。多幸感がその字面からだけで、ひしひしと伝わってきます。
 ので、自然と足が向き、ガス・ヴァン・サントの文字に、ポスターの少年の美しさに、たった一週間の上映期間に、チラシで割引があることに、ぐっと来て見てしまったわけです。
 そこはシネマ5 |大分県大分市の映画館と言う映画館。
 え〜っとここまで前置きです。と言う僕にとっての聖地礼賛。と言うか宣伝ですね。皆さん、お暇でしたら行かれてください。
 
 まぁ、そもそも『パラノイド』って何でしょうかね?パラノイアと何か関係があるのか?
 主人公が事件後シャワーを浴びるシーンがものすごく迫ってきます。もう死にそうになります。見ているだけで。ものすごく移入していくんですよ、彼の感情に。ディレイのタイムがどんどん短くなっていって、ウォーッてなんのね。全般的に音楽には聞き入らされる。
 
そもそもスケーターカルチャーが、僕にとっては魅力的です。
 郊外の大型スポーツショップでセール品の中から何の気なしに選んだ通学用バッグがスケートボードキャリアーだったのが、シンクロニシティですね。

 ボード、買ってしまおうかしら。

Lesson#238;チェルフィッチュの「フリータイム」をみて。

もう前衛です。前衛。サッカーにおけるフォワード。アメフトにおけるライン。ダブルス・テニスにおけるフォア(コート)。
それは演劇。と言うかパフォーミング・アーツにも存在します。
なぜ彼らの無機質な台詞回しと、ヲタクと言われる人々のしゃべり方に近似性を僕は見出すのか?
つまりは自然からはみ出した部分がカリカチュアされているのだ、と言うことのような気がする。
作為に次ぐ作為。
それよりも忘れてしまった自然―オリジナル、初期衝動、そう言ったものか?―と言うべきなのかもしれません。
これを見て決して“自然な”と言う形容詞は浮かんできません。
きっと、この舞台を見た多くの人にとっては。
Artificialと言う語に人造のと言う意味が含まれていることに、何かしら感じるところがあるのもそれゆえなのでしょうか?


え〜、まとめは…
NHK久保田祐佳アナ、可愛過ぎです。

どうだこの可愛さ!!