Lesson#244;コピーとオリジナルとアートと消費をめぐる言説(1)

 コピーとオリジナルの問題はベンヤミンの『複製技術時代の芸術』にその本質的な部分が触れられており、さらにアートの要素を加えればアウラ(オーラ)の概念にも触れることになる。

 現代社会の消費について考えるに付け、避けては通れないコピーの問題は何もコピーライトだけではない。多くの消費者がほぼ同一に見られるコピーの商品、サービスに対して対価を払い結果として得られる充足や満足を共有しているのである、と言う前提はここ100年の概念であり、個々人の個性と言う神話・寓話・撞着への寛容が広まったのはここ2〜30年である(日本において)。

 この国では活動の多くは消費に包括される。それ以外の活動は、活動として日常に定着せず、特異なものとして存在する。声高に政治を叫び、デモ行進を行うことやボランティアで誰かを救済するような活動は、TVで見たり誌上で確認する行為でしかない。多くの活動は悲しむべきに、消費(生産)活動に内包され僕たちが注視するものは¥マークの付いた値札のみになってしまった。

 価格を有しないものへの判断はいつまでも下ることがない。下せない。その大きな不能感に苛まれながら、僕は文章を書く。中古のCDを買ったり、1000円の日に映画を見に行ったり僕の消費活動は乱れた価格設定の中にある。それ故にほかの人間とは共有しがたいものを内部に形成しがちだ。そしてInternet Explorerのお気に入りに入っている多くの女性アイドルたちのブログの巡回は、現実の前にある夢の痛みが視覚化され、大きな悲しみを誘う。

 退屈だ、楽しい、気持ち悪い、美しい、グロテスク、かわいい、怖い、格好いい、痛い、気持ち良い、ダサい、そんなものに埋没していく現代的な病理。それは集団の、又は個人のものである。発症しているのかいないのか、治癒しているのかいないのか。それらが不明なまま、時間だけが過ぎていき一方的に拡大する事が前進であるとするなら、病理もまた拡大するだろう。

 価値観の違いを口にすれば簡単だろう。しかし多様化はこの時代になって初めて幻想であることがはっきりした。強迫性による収斂が結果的に型を生み出したことに対し、絶望するしかなく途方にくれていては何も起こらない。

 世界は個人にとっても集団にとっても何かの創造から始まるべきだ。