Lesson#249;ハーフ・リラックス/ハーフ・ストレスドな関係。

僕らは安易に痛みによって繋がろうとする。
共有できる悲しみについて親近感を覚え、お互いにその傷をアイデンティティにもしくはその人の個性として捉えている。ハード&タフな現実社会は容易に人の身体・精神を傷つけるが、それを克服するために営々と努力を重ねてきた。それなのにいつまでも血がドロドロと流れ出す傷や、朝起きても抜けきれないだるさが僕らを襲う。

症状や傷の可視・不可視(“なんとなく”と言った第六感的な知覚の可能性も含め)の問題ではなく、治癒するべき病や傷をそのままにし、それに依存するような構造自体に問題があるとするなら、根治は絶望であり、それは“一生付き合って行く”類のものだろうと思われる。

悲しみに泣き濡れている姿が美しいのは銀幕の中もしくは血汗飛び散る板の上もしくはうっすら臭気を持った紙の上のインクの中だけであり、せせっこましい液晶だのなんだに映し出される文字列など中にはめったに無いのだ、などと言うのは往時の活動ファン乃至アングラ演劇ファン乃至文学青年のように思われるし、そう言う類の人々の憤りすら今は失われ(実際にそう言った人々が他界する、と言う形で)つつある。

僕らはあふれかえったものを大量に消費することでこの時代のスピードを、つまり生を実感しているが、もう少しじっくりと一瞬一瞬を丹念に味わうことが出来ないのだろうか?生涯に消費する、活字、映画、テレビ番組、音楽、紡績繊維、化粧品(男女問わず)、金属、エレクトロニクス、電力、化石燃料、情報、水、カロリー、金銭は膨大すぎ、消費することにかえって疲弊させられ舌は、目は、鼻は、耳は、肌は完璧に駄目になってしまったんじゃないのか?

そこにある単純な悲しみに対しての反応さえが愚鈍になっていく。
あまりの生々しさにきちんと対峙できずただただ呆然とするだけ。
まだ泣き喚いたり逃げ出したりするほうが健全のような気がする。
恐ろしい。

僕らのやり方では、無駄に血が流され続ける。
悲しみは終わらない。
恐怖が生み出される。
魂はすり減らされる。

絶望とさんざ忌避し続けた死だけが待っている。