Lesson#240;『ご近所計画』Performed by ちくは & 素体ル

 あの空間がある生き物の臓器であるとするなら、僕が想起するものは精子嚢である。それは僕がウディ・アレンのファンだからだ。つまり違う映画監督を信奉する人なら―たとえばそれがフェリーニであるなら結果は死後の(または夢の)世界であろう―当然変わってくるだろう。そして、あの空間が(僕にとって)白昼夢の字義通り夢のようであるのは、それが夢の実現化であり、眼前の現実に投射された時点でそれは夢の神性を欠き、勢い映画と言う現実世界の夢―白雪姫、シンデレラは映画であり、東京ディズニーランドは夢の王国だ―に強い親和性を示しだす。体験である以上に映像的であったのだ。
 白布で包まれた空間を意識すれば、それを支配したい欲求は輪郭線のコントロールとして現実世界では披露されるだろう。それが可能だったのはただ一人(髪をライアーライアーに出てくる女性のようにセットしていた人)であり、彼女を頂点とするヒエラルキーが空間内に存在し、あたかも彼女が世界の母であり、そのほかの人間がせきあの一構成要素であるかのような個人的解釈も可能だ。それが空間の中心線を意識するならあの演舞のシンメトリーが、生来ヒトは性的な臓器が左右対称でありながら僕はそこに後天的に外科手術(睾丸の一方の切除)による非対称を有しているがゆえに完全な、セクシャルに敵対する(故にジェンダリックには強い憧れを抱く)性である女性性・母性を意識させられるのは、仕方が無い。
 結果として暴力的だ。と感じた理由は抗し難い自然の摂理を象徴する符合を多く読み取ったからで、卑小な個人にとって自然は猛威なのである―フィジカルにもメンタルにも―と言う無意識に根付いた恐怖が大きな一因である。

 そして映画が引用されるのは場のマジックだ。
 本来が映画のための場である。
 そして台詞がプイグのように、包括しての関連性しか見出せないのは、プイグ自身が脚本家であったことによると思われる。
 何よりもイフクさんのポップ=ボレー=コーン=キックがすごかった。と思います。
 そして同じ演目名が付されているのは、微妙に違和感がありました。
 ネーミングはどういった過程でヒトが得るに至ったか?と言う認識論に立ち返る問いが、また頭をもたげる。
僕の心の中に。