Lesson#229;涙を拭くためのクリネックス(Get My Mac Down↓)。

 やっべぇ!!早くドコモに変えなきゃ!!だってケータイが成海璃子になってプルルルプルルルって着信を知らせてくれるんだぜ!!しかも成海璃子になってる間は手つなげっちゃったりしてさぁ…えっ?そうじゃないって?あれ、演出なの?そうなの、へぇ〜。いやいや知ってたって、うんうん。知った上でのね、捨て身のね、コントですから、これ、へっへっへ(笑)。
 なんてことになりそうな一歩手前で自分のケータイがドコモであることに気が付き、変な汗を人前でかかずにすんだところですが、いまだに赤い新機種に変えれば時々ケータイが赤いワンピース姿の成海璃子に成るんじゃないか?もしケータイのカラーが青かったら青いワンピースなのか?でも彼女のイメージなら純白のワンピースのほうが似合うだろ?しかし、いつ何時その瞬間が訪れるとも知れないのだから、肌身離さずケータイをもってなけりゃいけない。しかも寝てる間なんかにひっそりと変わったりしたら困る。睡眠導入剤なんか飲んで寝ていられないじゃないか。困った、困った。
 と、一縷の望みが捨てられずにいますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?二宮 聡です。こんばんは。もしくは、こんにちは。もしくは、おはようございます。
 ドコモの策略乃至成海璃子の魅力にまんまと陥りそうになっておりますが、それとて健康な証拠でしょう。消費も恋焦がれることも、強烈な欲動に駆られて初めて可能になるのですから。その点で僕はガス欠状態になることが多々あるので注意しなければいけませんね。
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 うすうす気づいてはいたんですけど、もしかしてクラシック音楽って、いろいろある音楽のジャンルの中で、けっこう治癒と言う性質が弱い部類の音楽なのでしょうか?なんと言うか終始、緊張気味な雰囲気ですし、その音楽がなる場はシリアスな顔ばかり。ある意味、全員の反応が画一的だ、と言う点で癒されそうな気はしますが。
高度に教育された人間の喜怒哀楽は管理しやすく、むしろその統制のための教育であるように思えますし、そういったものは忌避され、唾棄すべきものでしょう。など僕などが口幅ったく言っても誰も聞いてはいないだろうから良かろうと、勢い言ってしまいますが、幸せへの統一的見解が可能か否かは、愚問であるにもかかわらず、ありもしないそれに私たちの日常は雁字搦めであるとするなら、そういった路線での教育があまりにも愚行に思えてなりません。
 浅はかなクラシック音楽の消費の中で癒しという側面があるとすれば、ある種の教育によってもたらされる、文脈的なものであるように思えるのです。信仰心があれば救済される/信仰心が無ければ救済されない、と言うドグマティズム的な奇異さを、教育の末の画一的な反応の中に見るとするなら、それを真の意味での治癒とするかは多く腑に落ちない点を残しての帰結になるのではないでしょうか?
 実際には美しさにあふれた音楽によって治癒が遂行されることがあります。僕もその恩恵に―自身の力では無く、運と演奏者の美を生み出す能力によって―与る事が二、三度ではありますが出来ました。しかし、そういった機会を阻害するようなことが往々にしてあるように思われます。それ故に治癒の性質が弱いと思われるようならそれは厄災でしかなく、幻想的な恍惚は偽物であると言え、そんなものは悲しすぎますし、何の役にも立たないでしょう。
 感じるまま、と言うのが何ゆえ難しいのか?と言う問いが、でかでかとしたスーパーとして画面を横切っていきます。
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 もし僕が死ぬ日が来るとしたらきっと今日だろうと毎日思いながら暮らしている。やっぱりいつもちょっと悲しい。