Lesson#223;“シリアルキラー”アレックス・パタソンの感動的自叙伝

 みな僕のことを心配してくれている人は、明暗の違いはあっても“死(もしくは自殺)”についてその考えの多くを割いている。
 それが大問題であるのには大賛成であり、僕にとっても“死”はそれこそ文字通り死活問題である。だけれどもそこに至るものは憂鬱であって、当人としてはそれを解消したいのだ。
 何と言うか、論点の際が感じられるのだ。主体として、鬱と言う字を書くのもまどろっこしい問題に対し、大前提としてのそのユウウツ(もう面倒臭いのでカタカナです)な気分の解消が必要意なってくるだろうに、そこではない、ある種その病気の劇的な症状の自殺についてのみ議論が先行しつつある。
 どんな問題でもそうだが、人目を引くトピックというのが議題とされ、議論が空洞化しまったく的外れなことになる。本質が理解されずにことの進展に必要以上の時間や労力が掛かり、つまりメンドクサいことになるだろう。
 今回の件を通して僕が感じたのは、僕に対して―それは心からなのか、ポーズなのかはこの際分別しないが―心配していると表明する人々は“死”のことをトピックにし、かつ、自分のことについて語ることが多くおきるような気がする。ということだ。
 また旧知の仲、と言って良いほど、苔生すほどの昔から僕の中に居座る考えだが、“家族”と言うUnitがその構成員すべてにとって居心地の良いものではない可能性は、この文章の肯定形と同程度の可能性であると思われる。というものがまた頭をもたげてきた。
 結局人と人の間にはDis-Communicationが存在するという事実を小学生のときに自覚した僕は、その後の人生に通じるテーマとしてのDis-Communicationを家族や恋愛に拡大した結果、つまらない人生になってしまった。
 ある対象としての人物の感情を理解するとは難しい。それは不可能であると思えるほどの難しさである。
 もう一度無垢な赤子に戻り、その人の人生を体験できるなら、今その瞬間の、友人の、恋人の、配偶者の、歴史上の偉人の、国家首相の、ある一人の死刑執行人の気持ちを理解することがもしかしたら可能かもしれない。
 上記の他人の人生をもう一度とは、大仰な装置であり行為であり、その上結果はかもしれない。である。
 メディアがいつか進展のハテに感情すら伝えることが出来れば―脳内物質の量に還元されるかもしれないが―人間のDis-Communicationはなくなるだろうか?
 実はメディアはその量の肥大をもってして私たち人間の均質化を行えばDis-Communicationの駆逐が可能になるのでは、と今思っている。
 あるコミュニティーの体験、記憶が同一とするなら、もしくは個人的なそれがメディアによってもたらされるそれに量的に、圧倒的に凌駕されれば、同一な人間を作り、同一な感情が生まれ―Dis-Communicationが体験・記憶の異なる人々の間に生まれるとした上でだが―Dis-Communicationは無くなりそうである。
それがユートピアかどうか?
問題は以前取り上げた個人史、社会史にかかわる、メディアのもたらすコミュニティー―現在は地球規模にも思われるそれは、実は局地的である―のイベントの一綴りが社会史であり自らにしか帰属しない、Dis-Communicationによって個人間で別たれた個人史。
この二つの相克はもう少し考えてみよう。

なんだろう、中田あすみって良いですね、足が、腿が。