Lesson#213;24秒の3600倍(さらに365倍)。

 ラスタファリズムが生み出した音楽がコズミック、スペイシーな感じなのは、それが(内、外両方の)宇宙を捉えようとする宗教だからであり、仏教発の音楽はどこへ行き着くのだろうか、と考えていると、キリスト教発はクラシックとロックに行き着いた、といって良いのかという疑問も湧いてきて、ブードゥーはヒップホップに行き着いたのだ、とするのもちょっと無理ありげでこじつけがましいな、なんて思ったりする今日この頃です。え〜っと、僕はきっと仏教発の音楽をやるんだろうな、と思っています。
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 ちょっと一般的ではない言い方で言えばセックステープ、わかりやすく言えば所謂アダルトビデオAVというものがVHS(ベータでこう言ったソフトが販売されていたのかは不勉強ながら存じ上げてはいないのですけど、きっとあったのでしょう。ですがベータがVHSに圧された、という現実からVHSに比べて充実したものではなかった予想されます)での出版からDVDを経て、ソフトとしてのそれがインターネットよりダウンロードできる時代になり、男女間(同性間のものは実感としても知識としてもわからないのですが)の性風俗乃至恋愛の形態が変容したと捉えるとすれば、その主たる消費者が男性であったと考えるに、現代日本における少子化や晩婚化は、女性に対しまことに申し訳ない話ではございますが、僕ら男性のほうに大いに責任が有ると言うほかありません。
 めちゃくちゃセックスして、めちゃくちゃ子供を生んで、めちゃくちゃ死ぬ。と言う世界観は現代日本にとって前世紀的な、もしくは後進国的なものとして、エキゾチシズムや懐かしみの感覚をもって思いやられるものでしょう。もしくは同じ音が二度繰り返されるタイトルを関する雑誌(ananは除く。あの雑誌だけはセックスを称揚する号が出版されるので。そしてTarzanはそのタイトルが同じ音の繰り返しではありません)を愛読する人々にとっては、想像すら難しく人によっては忌避されるようなものかもしれません。裏を返せばいま現代の日本は、ちょっとしかセックスをせず、ちょっとしか子供を生まず、ちょっとしか死なない。と言う世界観によって席巻されている状態であります。
 他人のセックスの鑑賞が、実際のセックスに置き換わることはありません。しかしメディアのリアリティの獲得が擬似的な体験を生み出すに至り、追体験が先体験(こんな単語があるのか?と思って追体験を辞書で調べると、追体験自体が『他人の体験をあとからなぞり、自分の体験のようにとらえること。(出典;広辞苑 第五版)』とあるので、僕の認識のほうが間違っているのでここは「実体験が追体験」と書くべきなのでした。ああ無知とは怖い)に取って替わる。これはほかの分野でも起こっていて、あるCDを聞く前にAmazonのレヴューを呼んだだけでなんとなく聴いた気になる、と言った現象に似ているようになります。これはAmazonの功罪、と言うよりかはメディア成育〜メディアリテラシーの問題なのだと思います。ありきたりな例でつまらないのですが、キリスト教活版印刷の登場により大きな変革を遂げたように、人類は有史(この言葉も歴史を記述するメディアの誕生による)以来、メディア(の技術)の爆発によってその進むべき方向に大きな影響を受け続けてきました。 
 ここ日本では、その国の存亡にかかわる生≒性と死の感覚が、セックステープ乃至ダウンロードされる動画ファイルによって揺るがされています。そう言った意味では政府の行うネットの規制は有用なのかもしれません、少子化対策として。
 誰もが、見目麗しいかたがたと恍惚としたセックスができるわけでは有りません。しかし、セックスの良否はそこだけにあるのではないのです。何でも試して自身にフィットするものを実体験として得ていかなければならないのです。避妊や性感染症には十二分に気を配らなければいけませんが。

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Our Likeness

Our Likeness

 
 歌詞がね、音として捉えられないとなると、困ります。十代のころに、J-POPをいつでも蛇口をひねれば水が出ると言った感覚で浴びるように聴きもしくは聴かされ、カラオケでエクトプラズムよろしくデロデロと垂れ流すように乃至快楽と歌唱の境が融解するほどの熱を持って歌う、と言った経験のない僕はこういうCDを聴くと本当に感じ入ってしまう乃至怖い、となるので強烈です。