Lesson#200;貝。

なぜ連作(一綴りの。スイート。などなどそういったもの)なのか?と言う問いと、なぜ(同じタイトルを冠していながら)分断されているのか?と言う問いは、表裏一体乃至まったく同じなのではと思われます。これはクラシックの楽曲についてですが、半ば崩壊しかけた形式にもかかわらず、こんなところは律儀に守られているのです。

型を学んで遵守していくってのは、テキトー(←ここ重要。伝統芸能だとかの細部が非常に厳しいやつは違う。学ぶのも守るのも本当に人一人の人生を費やす作業になるから)にやってれば楽チンで、わかりやすいものがぽんっとできちゃうわけです。これ、消極的な型の利用。んで、一見型通りで、(全体。もしくは部分が)わかることはわかるんだけれど、なんか変だってのも出来てくるわけです。これが意識的に行われるときもあれば、気の赴くままにやってたら自分では型通りやったつもりなのに人から見ると変なものが出来上がってしまった、なんてこともあります。こっちの(無意識な場合別として。これは個性の問題)が、積極的な方の利用ね。

世の中に存在する型ってのはさ、結構バリエーション豊かで(ここら辺はさすが人類の積み上げてきたところだなぁ、と感心させられるわけなんだけど)何の気なしにやってるとほぼ間違いなくどっかに回収されちゃうの(この回収が現代の批評の一手法ごとく跋扈している気がするのは、構造主義・還元主義・フロイトなんかの功罪の罪の方なんだと思うんだけど)。そっからアウトになろうとすると結構神経を使うわけ。

結局歴史ってものの叙述の仕方なんかの型が出来上がってて、その型を通して僕らは歴史を学ぶわけなんだけれど、それが文化の体験にも持ち込まれてきちゃって、さらに個人の体験にも持ち込まれたりするから、ややこしい見方を、捕らえ方をする人がいるんじゃないかなぁ。あれは史学のうえでの発明であって日常生活で有用性を発揮し心が潤う、ってな代物ではない気がします。

歴史の叙述ってのは本当に一部(と言ってもものすごい広さを持った一部ですけど)に対してしか有効に機能しない方法のはずだし、脱構築なんてのはもう思いっきり(意識した上での)アウトなものだと思います。

創造者な方々がつまらんと言うような批評家の方々のやってることが文章を書くことではなく歴史の叙述と変わらなくなってて、ましてやそれが有効性を失うような場所で振りかざされれば、なんともつまんなくなるのは当然だろうなと思います。え〜っと何っーか批評はね、カウンターであるべきです。創造に対する創造の。

気になるのは、マーズ・ヴォルタ菊地成孔さんなんかのカッティング・エッジを突っ走ってるような人たちの組曲構成ってのは、どんな気分でやってんだろうか?ってことです。