Lesson#199;100%KFC(こっち振り向いてちょうだい)。

いま霜に浮いてあらわれた、この陶片は白く青くあまりに美しく、私はふたたび人の見る目にまかせたくない思いに駆られ、こなごなに砕いて土にかえしてしまった。(幸田 文「かけら」より)

思い出とは重要この上ない。レコードを聴くとき、ステレオの前で正座して聞いていた。と言った経験は昔日のおもひで。今で音楽へはクリックひとつで一っ飛び、i-Podにぶち込んで街に繰り出しイヤフォンで、と言うのが風潮のようですね。音楽に聴取形態の与える影響は計り知れませんが、それは実際に聞く瞬間よりもだいぶ前から始まっているのではないでしょうか。レコードジャケットの重厚感(単純な大きさの説得力)は人に消費を促すに十分です。雑誌の評論。などなど。ある人は音楽にたどり着くまでのテキスト(多分年齢的にこのメディアが大部分を占めているはず)は付帯する情報として捕らえ、ビートルズと何か忘れたけどたぶんものすごいノイズだとか即興とかの盤だと思いますが(そういうのが好きな人なんで)ではどちらにおいてそれが多いかなんて議論していましたが、う〜む、ちょっとそういうのはナンセンスな気がします。

音楽に付帯する情報について、前述の思い出が重要(こう、すっぱい感じに鼻の奥のほうに効いてくるんですかね、多分)であるのはいうまでもないことですが、社会史と個人史(思い出を一つなぎにしたもの)の関係がさらに重要になってくることは言うまでもありません。しかしこれらが混同されると複雑なような、ただ単に中途半端な集合意識に絡めとられたような感覚で音楽に接するようになるのではないでしょうか?みんなと一緒/人とは違う。と言うのは両者とも基盤とする集合のみんな・ひとがあって始めて成立しますが、そこを意識(その強度の差こそあれ)してしまえば集合意識からは逃れられないのではないではないか?と言うか、社会的な生物である人間には仕方のないことではあるんですけど。

個人史と社会史がパラレルに進む(完璧には無理)/ほぼ同じ(個人史がそのまま社会史のようである。のはコルトレーンくらいか?多くは社会史を追随する個人史となる)と言うのが両極で、多くはその中間に位置するとは思います。相互に乗り入れ、離反などが繰り返されていくんですけど。個性的な人とかは個人史も特異で(特異な個人史だから個性的だといえなくもない。つまり鶏と卵)、僕のようなフツーの人間から見れば社会史と同等の強度があったりするのです。個人史は個々人のものであって相関的で、それに対し(ある唯一のものであるがどうにもこうにも完全には知覚できない)社会史を絶対視するのもコチコチに凝り固まった感じですね。

歴史として社会史を捉え勉強すると勢い個人史が拡張したかのように感じるんですね。この拡張が自我を増幅させるんだけれども、物理的な時間ってのはどうしても生きている間しか存在しない。ので、いくら勉強して拡張したつもりになっても実はものすんごい制限の中に自分がいるんだと意識的にならない限りは、幼児的な万能感で心を満たしてしまいがちになりますね。でもその方向への歩みが止まらないのも事実ではあるし、ここら辺が教育偏重主義の悪いところなんではないでしょうか。

実際には音楽を聴く意味なんてないのかもしれないのだけれど。