Lesson#195;またしても子供である自分(との対話)。

少年漫画の多くがその主人公を少年においております。これが幼児的万能感を助長しているのではないか?と思います。そしてそこから脱却することなく青年期を過ごし大人になっていく。さらに広く、大人の間でも少年漫画が読まれている。その名に“少年”を冠する漫画雑誌に掲載されているものを少年漫画と十把一括りにして良いのだろうか?いや、この作品の文学性はもっと評価されるべきだ!漫画だから子供っぽいとすること事態が子供っぽくないか?う〜む皆様それぞれ意見がおありのようです。
主人公が読者にとって共感の得やすい対象として描かれると、勢い共感が強すぎて移入が起こり、同一視しだす。なりきる、というのはその欲求のもっともダイレクトな発露である。コスプレという言葉が浸透しているがその原義がどこにあるのか?コスチューム・プレイの“プレイ”は“遊び”なのか?“演技”なのか?前者でも後者でも境界の設定が何においてもしっかりしていないこの国の土着的な文化・習慣においては、日常・非日常のグレーゾーンの中にあるラインは明確に認識できないであろう、永遠に。
 境界がはっきりしないからこそよかった、きちんと機能していたシステムは前世紀の近代的戦争への突入とともに中途半端に壊されてしまい、その状況が多くの個人的・社会的病を世紀末になって誘発しだしたのでしょう。

 青山テルマ氏、なぜ喜びの表情を持って歌われるのか?もっと痛々しげに歌われてもいいのではないか?僕のように奴隷としての苦痛、もしくは人種偏見の眼差しにさらされていない今日的な日本人にはゴスペル中核にアクセスできそうにない。と言うかきっと業の深かったであろう、サラ・ヴォーン氏のあの強烈なジャケがどうしても頭を離れない。うむ、ブルースとゴスペルはやはり邪と聖であり、地獄と天国であり、別物なのだろう