Before Lesson:素敵な大失敗(あくまで力点は“大失敗”の方に)

学校で目覚めたのが朝六時。なんだか消化器官全般が気持ち悪い。ガスばかりがプースカプースカ出る(が、周りに誰もいないので音も気にせず放屁。ぶぅぶぅぶぅ。うわっ、くせぇ。きっと食生活が良くない。最近コンビニ的なものばかり口にしているからだろう。ああ天然発泡性鉱水が、きりりと冷えたジャスミンティーが、恋しい)。体をくの字に折り曲げ、机に突っ伏して寝てしまったからだろう。こんなことしていたらまた整体師に怒られる。いけないのは百も承知。こんな状況、毎日の生活をきちんとしていれば回避する術も在ったのに。ああ、生き方のなんと下手なことか。指導教官の先生は、根性がないとおっしゃられる。詰めが甘い、と。そうそう、それは小学校のときから言われております。小学4年生のときに結婚で退職される担任の先生からもらった色紙には“粘り強さを”と書かれていました。別れ際に渡されるメッセージが現状に対する苦言である、というのがいかにも教師的(もしくはただ単に誉めるところが無かっただけか・汗)。浅はか、淡白、めんどうくさがりの僕なんかはそういったとき、つい世間体ばかりを気にしたあたりさわりのない美辞麗句にてその場を取り繕ってしまいがちなのですが、やはり熱意のあり先生方というのは、気合が入っております。沁みますねぇ〜、深いところに。
それから干支も一回りして今に至ってもこれこの通り、その先生の思いむなしく、こいつには耐力が無いなどといわれ、あまつさえそういった評価に対し何も感じない。悔しい、見返してやるなどとは一寸も思わないのはやはり、根性無しですね。ヘラヘラ笑ってばかりで痛みが何なのか?について何も解ってはいない。痛覚の麻痺。このご時勢―(現実には存在しない空間に)無限に拡張されていく(かのように思われる)無痛空間と逆相関して(余談ですが、全世紀末から現在に掛け“空間”という物理的な量の把握し方が劇的に変化した期間であり、自身の内奥という空間にアクセスできるようなった宗教付随のパラダイムシフトと同じくらい人類―と言ってもそれは60億分の20億人ほどに過ぎないのですが―へのインパクトが在ったのではないでしょうか?自己の内的拡張と外的拡張。しかし数学的世界において数が莫大になるというよりも虚数といった拡張のほうが意味合い的にはものすごいのだろう、と思われるのと同様に外的拡張は必ずしも面白いものではないような気がしますが)―人は痛みによって強くつながって行く傾向があるというのに、これではコミュニケーション上手くはいきません。
強烈なマイペース。他人と著しく異なるテンポ感。ものすごい高速な感じもすれば、ものすごくゆっくりな気もします。みずがめ座、O型というのはどうしてもこうなってしまうようです。破壊と創造と。わが子を食うサトゥルヌス。ゴヤの描くあの絵がなんとなく頭から離れず、“子”とは過去であり未来である、過去の自分を否定することへの強迫と、未来の自分に今を否定される(予期)不安。なんだかそう言った物が僕の中ではグッダグダなのです。幻聴・幻視・幻蝕(←こんなものあるのか知りませんが。ふとした瞬間に末端、手や足に触ってもいないのに触覚がある)にもまだまだゲラゲラ笑っているので、まだまだ大丈夫でしょうが。