Lesson#187;菅野美穂に肌質の似た女性(への恋)。

なんと言うかですね、嗚呼こんなにも世のため人のために役に立つ学問をやれて僕はなんて幸せなんでしょうか、ってね〜。それだけが大義名分のごとく幅を利かせ、何もかも成り立っているような気がします。僕も自分の研究がどれだけ苦痛を与えるものであっても、このおかげで○○に安全な××が建って(僕みたいな人間でも一企業の外に漏れては困る秘密にアクセスできるのですね。実の所は産学連携と言っても持ちつ持たれつといったところなんですね)多くの人々が幸せに暮らせるんだ、と思っているわけです。
他の人の幸せ、これに貢献することが最上であり、自分にとっても幸せ。お客様が笑顔になるその瞬間に、この仕事のやりがいを感じますね。それがそうなら快楽と直結する風俗嬢やデリヘル嬢やコールガールなんかが最強だろうと思います。私は男性に射精させるのが仕事です。こういった職種の人々がどういった多幸感のなか日々の生活を送っているのかは、近しい人にそういった人がいない。僕自身にもそういった経験が無い。と言った状態で押し測るべくも無いのですが、一般論的にはそうでは無いであろうと思うわけですけど、前述の僕のおかれた情報が不足している状況では、う〜む、偏見かもしれませんね。
神の存在を黙殺し続けるこの国―神が眼前に実態として存在する宗教の施設が其処彼処にあるにもかかわらず―ではその意図によらず自己の存在意義を証明しなければいけない。(僕はエゴグラムによれば僕は宗教家に向いているそうなのですが)どこかに居る個人の存在の確かさよりも、神の存在の確かさの方が証明するに容易いと思われます。有用である。と言う存在意義、行動の理由付け、価値尺度とは必ずしも確からしいことではない。主体ですらあやふやなのだから。と言っては言い過ぎでしょうか?
それは確かに甘美な理由であります。所謂世間一般の道徳も満足し、これに異を唱える人もまず居ないでしょう。しかしその実―神と同様―どす黒い衝動を無視する。むしろ論理性があるにしても脆弱(幸福感が必ずしも絶対では無く相対であり、かつ第一の命題に依拠し第二の命題が証明され、その第二の命題によって第三の命題が・・・の先に第一の命題に戻ってくると言う矛盾、何時までも上り続ける階段の騙し絵のように、夢まぼろし乃如しであります)なより、論理性が無いところの単なる多数派でせめて言った方がなんとはなし安心します。衝動にも神にも理由はありません。あればトラウマもしくは自然科学です。
なぜ自己疑念が拭えないのか?一日の大半を費やす研究がなんの衝動も無く、上で述べたような理由でしか肯定できないからなんでしょうね。あぁしんどい。殺してくれよう、あいつもこいつもどいつもそいつも。