Lesson#182;薄暗闇の中で思考は深化する(土曜午後の昼と夕の間、窓際

耳鳴りが一日たっても鳴り止まないほどの轟音、平衡感覚を失うサイケデリックな映像、人の輪郭すらおぼろげになるほどの強烈な照明。
舞台装置(もしくは科学技術一般)が指向するものの中に、自然現象のモデュレーションがある。と言って過言では無いでしょう。太古、呪い師、シャーマン、その他諸々の神秘性を帯びた人物は自然科学の知識に長け、それを利用するに至ったからこそ畏怖・畏敬とともに崇められたり、恐れられたりしてきた訳です。
ステージ周辺で踊りに没頭する人々の多くがトランス状態にある。多数の人々が、同一のある行為に耽って、理性的なものから解放された状態を集団トランスと言っていいのかどうかはわかりませんが、広い世界を見回したとき宗教的儀式にこういった状態が伴うことが多く(人が群れで活動する生物であると言うことを顧みるとそれもうなづける訳ですけど。“群れ”と“宗教”が論じられている場に遭遇したことが、浅学な故でしょうありませんので、これはワンセットと言ってもいいのかもしれません。と言って孤独な生命に宗教が宿らないと言ってしまうと多くの団体から非難ごうごうでしょうが・笑)、それが神秘への一路であると見ても良さそうであります。
後ろからぼや〜とした思考で見やるとあるコンサートの風景に宗教がちらついてしまう。のはこういった“自然(超人為)→神秘”と“集団トランス→神秘”の二つの流れが合流にあるのでは無いでしょうか。
しかし言葉を使わず、音と映像と光、遠隔的な感覚(エロティックな側面の少ない。多分これも重要)に訴えかける三要素を用いあの空間を作った。と言う事はつまり、思想は無いので、宗教の要素の最も大きな部分が欠落している。このことが“なんとなくそれっぽく見えるんだけれど、その実違う”感を引き起こしているのでしょう。

つまらないことで争うのはやめて、さぁみんな一緒に踊ろう。この瞬間に酔いしれよう。

と、まぁ、何でございやしょう。これこの通り、実はライブ評で見たいなもんで。感想文の体で書いて、全くこう批評精神なんてものが宿らない駄文でライブ自体がどうこうと言うより、この国には宗教が根付かなかった理由と、根付く可能性を示唆する部分を結局言いたいでしょうね。自分の文章で『でしょうね』なんて酷いですね。やる気あるんでしょうか。

何よりも踊る人々が、特に男性において、猫背気味なのを見るにつけ、背筋の伸びる思いです、字義通り。

え〜行ったのはROVOの福岡公演@IMSホールです。