Lesson#180;頓挫、前座。円座。高座。中村屋!

とんぼ返りながら門司港に行き、I.S.O.+ジム・オルークの公演に行ってまいりました。北九州のビエンナーレ
他の出演者は、とフライヤーでも見ればかけるんですけど、覚えてる分で書こうとするとどうしても間違えたりするので、気になる人は大友良英さんのJAMJAM日記を読まれると良いでしょう。
?部で寝てたりとか、鑑賞態度としてはどうかと思ったんでしたけど、?部のストイシティと対照的になってるからまあ良いかなと。ノイズっぽい音楽はきっと母親の胎内の音と似ているんでしょう、何故か眠くなります。こう、ヘッドホンで聞いているとそんなことは無いんですけど、巨大なスピーカーで爆音とかだと、耳→脳よりも身体が先に反応してトロンとしてしまうんですね、きっと。でも前にバファリン飲んでたから眠気を誘ったのかも。
音楽の形態としては、何とも形容し難いものなんだけれど、別に形容する必要も無いし、するのを嫌がる人もいるし、僕もそれが本質的なことかどうかもまだまだ解りかねるような次第なので、今何か言おうとしても甚だフワフワしたものになるんだけれど、あの薄暗闇で、多くの人が体育座り(地面に座ろうとするといきおい体育座りをしてしまうのは教育からでしょうか?海外ではどうなのか?座りのスタンダードってなんでしょうか?Defeatedな感じを受けるんですよね、あの座り方。教師に威圧されているようで、内省的になる。)をし、ミュージシャン達を一心に見つめる姿は、観客の部分だけを切り取って提示すれば宗教的集会かなんかと見紛うばかりだ、いや太古から音楽と(ダンスと)宗教は強いつながりを持っているからこの連想はむしろ逆説的ですらあるぞ、なんて言う思考を喚起されたのは帰りの電車の中ですけど、体験してもまあやっぱりよくわかんないですね。
どんなに素晴らしい音楽でもやっぱり興味が無いとスゴイ苦痛で、どう取るかなんて自由だから、金払ってりゃ最低限、快/不快の意思表示があっても良いと思う。僕も色んな音楽が好きだけれども明確な好みがあって、これからの体験におおよその予想がつくならそりゃやっぱりやめようって気になって、きっとケニーGのコンサートなんかには誘われても行かないでしょう。でもN響とかは行くんだけど。
つまり知人のダンスの公演があって、そこに彼女(いないけど・泣)をすれて来いよと言われたって、コンテンポラリーダンスはちょっと覚悟がいるだろう普通の人には、とか思って引けちゃう訳だ。それは僕にとってのケニーGやカシオペヤ、村上ポンタ秀一なんかである気がします。スマップは見たいですけど。
体験せずに何か言うのは良くないけど、はなから興味ナッシングならやっぱり行かないんですよ。感動って自発的なものだから場を用意した上で感情の変化がなんにも無い、むしろ不快だ、って言うかこんなんで金取んな、いや殺してやる。なんてなっても仕方が無い。逆にスゴイ食いつくとかもありえるんですけど。
パフォーマーの方の中にはむしろ批評は大歓迎。って人もいるけど、これは批評とかとはまたちょっと違った気色の話と僕個人は思っています。芸術を鑑賞するって活動が、この国では多くの活動が消費活動にカテゴライズされて、と言うかそれしか存在しないようにすら思えるほどだけれど、金とそしてこの社会で大きく尊重される時間に近接的なこと、下手するとそれらと等価とすら思われている社会全体の構造についての話題。
今回の話では芸術と一番近いのは感動、興味って所だと思うし、それは人に言われて動向って言うもんじゃ無い。だからそういった側面しか扱えそう無い僕のコンサートレヴューなんて意味が無いのかもしれないんですね。