Lesson#164;大名カント(カンジダ罹患中)。

 日常のふとした瞬間に心の中に蔓延する空虚感は何処から来るのか?僕は初め、僕が追い求めているものが実はものすごく空虚だからそんな風に感じるのだろう、と疑った。読み進めている本、スピーカーから流れてくる音楽、映画を収めたDVD、しゃれたデザインの洋服、熟れた香りのパルファム、世間で騒がれるアート、難解な演劇、カフェで供される食事。これらが実は見た目だけの、本質の伴わない非常に空虚なものだったのではないか?
 『センスが良い』と追い求めるものへ向けられる僕の疑念は、字義通りのホワイトルームで融解する。それは歯科医院の個室で僕がクリーニングを受けている間のことである。真っ白い調度品ばかりが埋め尽くすその部屋は窓から見える街路、木々の青々とした葉、家屋の屋根だけがカラーである。僕がふとした瞬間に襲われる虚無・空虚感は、追い求めるものに内実が伴わないのではなく、追い求めるだけの行為が限りなく空虚だからである。虚構であれ何であれ、僕が初め抱いた疑いは無礼千万。卑小なる者の歪んだ精神が生み出した自己への疑懐、もしくは真なる評価の拒絶の己への甘さから来る取り違えであった。タオルでさえぎられた視線の先にあるライトと純白の天井を想像しながら自分の小ささ、未熟さに気付かされる。
 追い求める(言い換えれば消費)のみの精神・経済活動の空虚さ。何も生み出さないのに消費にだけは俄然貪欲なのだ。ガツガツ、ガツガツと。こんな消費ほど貴族的行為はそうそう無い。そして消費主体が真の貴族で無ければ、自信の行為に耽溺し他人を非難しようとしか思わないといった精神状態にするのにうってつけな行動である。自分の卑しさに薄々、無意識的に気付いているからこそ、巧みにそこを避けて理論を構築―こういう言い訳がましいことばかりが上達する―し、肝心の自己をあたかも最初からそうであったかのように不在扱いとするのだ。消費の履歴ばかりを誇り、何も作り出せ(さ)なかったことへの罪悪感は、その消費が多ければ多いほど、強度の高い空虚・虚無感となって自己に帰ってくる。
 こういったことに三ヶ月に一回のペース(偶然にも僕が歯科医に通い歯のメンテナンスを受ける頻度とこれは一致するのだが)で気付く。いや、毎度毎度のことなので再認識である。こういった自己を彼女の中に見ているから、僕はなんとなく彼女に遭いたくないのだ。
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YoutubeJohn ZornのMasadaの動画があったので見ていたんですがなんとなく中年化したプログレバンドみたいにしか見えなくて困ります(別に何にも悪くない所が)。きっと直に見たらすごく感動しそうなのだけど、こういった知ったかぶり体験(高々10分程度の荒い動画が五感に取って代わる)も嫌だなぁ。