Lesson#159;世界一美味しいレタス巻き。

 ディズニーランドで遂に洋服まで買えてしまう。しかも20代のおしゃれな人が街中でも着られるような物を狙って作っているのだ。と言うニュースを昨日聞き、こりゃやばい、夢の国が時空間的限定性を持っており、文字通りいつかは醒めるものだ、そして日常に帰っていく。はずが、オフィスや街中に人知れずあの三つの黒い円形が連なったマークが忍び込んでいる。気が付いたら夢と現実の区別は難しくなり、と言うかその区別をつけることすら忘れてしまうほどの夢の現実への浸食は後退的で、その後退がある程度進んだ(“後退”が“進む”っていう表現はどうかと思うのですが・汗)時、あのキャラクターが笑い出し、その口から覗く白いものは非常に鋭い犬歯であることに気付くのでした…なんて日が来るんじゃないかという誇大妄想的不安が頭の中をぐるんぐるん回っております。
子供のような大人、大人のような子供ばかりのこの国が倒錯的であるのは既知ですが、こうした倒錯まで起きてしまう(レジャーが日常化してレジャーでなくなる)可能性と言うのも無きにしも非ずで、それはやはり米国への意識、アニメへの意識、夢(無意識の原風景)への意識と言ったものが無意識的であり日常において意識されえないからではないか?と僕には思えてなりません。大人(アダルト)とは、“子供”に付随するいろいろなものをきちんと把握し楽しむ事ではないか?欲求の充足が高度になり官能は増す。何かを消費することに敏感でいる。妄想が現実に即した形を取る。さらにはカウンセリングや精神分析と言った自己咀嚼。
“夢と現実”を“子供と大人”と置き換えるのは安易と言えば安易な、幼稚と言えば幼稚な感じですが個人的言語感覚に拠る物で、僕自身はなんとなくしっくり来るつもり使っていても、みんなには意味不明。なんてことが僕の身の上には過去よく起こってきてのですが、旧来の素晴らしいわが国の文人達ほどの品位豊かな感性が僕には無いからでしょう。厳密に定義するのも個人の日記と言うカテゴリーではやり過ぎな感があるのでやめます(やっぱりちょっと面倒くさいので・汗)。
夢(無意識。と無意識的欲求の充足)と現実(意識的な諸々の力動)の境目があやふやになり、現実が夢に浸食されれば、現実に多くを依っている私達の世界は容易に瓦解するであろうと思われ、その一端はもう既にNEETや引きこもりと言った形で姿を現し始めているのだ。と、言えるのではないでしょうか?
彼・彼女らの欲求の充足は『食い尽くす』と言った表現が僕から見るとしっくり来ます。無尽蔵に存在するものなど、この世ではありえない。そんな考えは前世紀末期にわれ等が母なる大地・地球を考える際によく引き合いに出されたものです。その結果の惑星の不健康は科学的根拠は置いといて、いつしかやってくるの事は事実のようです。私たち人も同じもので、『食い尽くす』様な態度の人たちばかりではいつかは自滅してしまうような気がします。人類史の側面として外部を食いちぎり掠め取ってくる状況は散見され、侵略と言う行為はその最たる例でしょう。
泣きそうになるほど悲しいですが、やはり何とかしなくては。