Lesson#158;水と花と月と美女と。

女性誌を立ち読みしながらけらけら笑ってたりしたらキモいっすよ、先輩。などと後輩から注意を受けたので仕方が無しに男性誌を読んでおります。
最近はエグセクティヴな人たち向けの雑誌、と言うのが増えている、もしくは旧来からのものもそういった嗜好性を若干ではあるけれど包括しつつある、という方向に向かっているように思います。まぁそんな空気感が濃密に香ってくる雑誌を結局けらけら笑いながら読んでいる訳ですが、そういった誌上の写真の中にはクールガイ(ホットに対するクール。のさら次が来そうな新世紀初頭00年代後半において“クール”・笑。その上に“ガイ”ってひど過ぎますね・笑)が夜のバーで隣に美人を座らせて…などと言うイカした(“ナウい”って言うのは一発変換されるけど、“イカす”は出てこない。いきなり“異化す”って出て『ブレヒトかよ!』って・笑)シチュエーションのものがあります。こういうところに出てくる女性像ってのは、マーケティングにより推定される読者の追い求めるそれであり、そのある意味想像上の、と言ってもいい偶像を現実のものとするためモデルを選び、ドレスを着せ、メイクを施しているのでしょう。
要するに、ああいった本を読んでる男は、そんな女とヤリたいのだ。と言うのが正しいのか否か僕は熱心な読者ではない(僕が毎号欠かさずその隅々まで読む。と言う雑誌は一誌しかなく、それは何かと割れればnon-noであります・笑)し、熱心な読者の友人・知人(僕のような年代は読まないし、読むような人とも何ら接点が無いので)もいないので良く解らないのですが、先っぽくらいは入れてみたいかもしれない。程度には願望を抱いているのではないかと思います。
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ある事柄に関して、どの程度意識するか、思考をめぐらせるのか、と言った自己投入の度合いは対象への希求と供給のバランスにあると思われます。枯渇や過剰供給、寡と多の極に近い位置付けにある場合、対象を強く意識している状態にあるのではないでしょうか。ここでバランスの中心にあるのは個々の欲求ですけれど『ときどき欲しくなる。だけどその欲求がいつの間にやら忘れられている(≒本人も意識しないまま自然と解消された)。』と言う状態が丁度良い湯加減であると思います。いたってナチュラル&ヘルシー。欲求が供給(もしくは必要)に対して、供給が欲求(もしくは必要)に対して過剰であると、獲得への労力の過多、忘却への労力の過多が生じてしまい『いつもそのことしか考えていない。そして飢えと渇きはいつまでも癒えない』か『カロリーオーバーで太り気味な自分が嫌だ。しかしダイエットしよう、と思いながら何もしていない。』でしょう。
愛しすぎることも愛されすぎることも、過ぎたるは及ばざるが如し、少し狂気じみている。
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先っぽを入れるのと何が関係あるのかと言えば、ああいった本の読者の内訳においてナチュラル&ヘルシーな人の方が少数だとしたこの国はやはり、僕にとってちょっぴり悲しい国だな、と言うことです。