Lesson#145;フェミニストでレズビアンの彼女との完璧な違和感。

 “心理的な病の分類学”と言うものは実在しないとは思うのだけれど、なんだかありそうな気もしないでもない名称ではありますな。どこかの国で樹立した新しい概念の邦訳として。そうすると“病の心理的分類学”や“分類学における精神病理”などと言う訳が当てられる可能性もまたあるわけです。わが国における西洋文化の接収の長い歴史を振り返れば各々の訳も『ありそうだ。しかし決定力にかける』感が有りますが、所詮ワタクシの造語からの妄想ですので、どれだって良いんですけどね。個人的には最後のものが一番フィットするように思いますが、本語の創造主としては(笑)。

 私どもの国では、と言うか僕周辺の人物に限って言えることである、とするしかないのですが、病と言うものが、フィジカルなものもメンタルなものも等しく(もしくは後者が若干、鼻の差程度で勝っている感じで)アイデンティティとしての強度を高めつつあるように思われます。現代に蝕まれ病んで行く体と精神、というイメージが退廃以外の何物でもなく、それがエレガントに見えてしまうという点が文明、王朝、国家体制などの歴史的時間単位の終焉が差し迫っていることを意味しております。最近の塩野七生氏の日経ビジネス誌におけるカルロス・ゴーン氏との対談での発言を受けて、の私(史)観ですが。病んでいる、と言う状態がぶっちぎりのネガティヴであったのに比べ、何かそれに寄りかかってしまうような状態にまでポジティヴなものになってしまっている。と、思われるわけです。他者から自分を分かつためにある種の病が存在し、うつ病パニック障害性同一性障害…と言う各々のボックスに自身を割り当てていく、と。

目の前で大の親友が死んでいく。強烈な虐待。と言った幼少期のトラウマなどが全く無い。毎日塾で家庭環境も上手く行かず、たまりにたまったストレスをいじめによって解消しよう。学校ではいじめられ、でも女手一つで僕等兄妹を育てようと働く母の背中を見ると、そんなことも言えず…。と言ったいじめの記憶も無い(『いじめられた』と言う意識は一切無い≒いじめられてはいない。は言えると思うのですが、『いじめた』と言う意識が一切無い≒いじめてはいない。の図式は容易に成り立ちませんので、自分だけで個人史を振り返っても怪しいと言えば怪しいのですが・汗)。と言った、ワタクシの発症した病はフィジカルな物ばかりで、かつ気胸や癌と言う『心労による…』と言う類のものでもありませんでした。単純にハズレくじを引いてしまった、と言える様な運の問題ばかりです。麻薬の回し打ちでHIVキャリアになる。などと言う危険な、しかし頽廃的で甘美なにおいは一切しない。むしろ無菌室的ですらある清潔感、消毒液のにおいがしますね、僕の半生からは。

え〜、そんなわけで今巷を騒がす社会的病理“いじめ”の議論へ首、どころか鼻先すら突っ込めそうもない僕が昨今のそういった状況に何か言うのはおこがましいですね(笑)。