Lesson#130;間延びした射精。結果としての反省。その実、同棲。

 今日は『第十一回 日本フルートフェスティバル in福岡』を聞きに行って来ました。いや〜フルートだらけ。と言うかバスフルートまでは知っていたのですけれど、Fバスフルート、コントラバスフルートは初めて知りました。その構造がシンプルゆえ音響特性そのままに長さが倍になる、と言うのは既知であるのにゲラゲラ笑ってしまいますね、律儀すぎる!って感じで。
 フルートだらけのコンサート。キラキラとしているステージはもう優雅さがマッシブになって襲ってきます。あの楽器は吹いた息の全てが管に入る訳ではなく、うた口で息の流れが二分されて発音されるんです。金管、リードの木管のようにブリブリ鳴らすのではない、単純に息でならしているのではない、と言うところがまたしても余裕と浪費乃至優雅、であります。
 そんなバカな僕の妄想は置いておくことにして(と言っても24金の楽器が存在することや、発音原理が特徴的だ、と言うのは事実ですよ)、すべてが同じ楽器によるアンサンブルの難しさと言うのものを音楽的に乗り越えきるかどうか?それとも単なるコンセプチュアルなイベントで終るか?と言うところが論点でしょう。
 音域も音色も被ってしまうのは今世紀的な音楽にはきつくないのだろうか、と言うのは和音とメロディ(とリズムが。と言いたいのですがこれはパーフェクトボックスたるオーケストラも必ずしも持ち得なかった要素なので。と割愛します)が分割された構造にはそういったフィットしないのでは、と思うからです。
 それぞれの声部が渾然一体となる古典的なヨーロッパ音楽はそれでもOKだったりしますが(今回は高校生のフルート四重奏、初演の曲の第一楽章はそういった意味で一番効果的だったと思います。と言うかこの曲のこの楽章だけ、すごくモダーンな味わいでスゲー!スゲー!って前のめりで聞いてしまいました。なのに二楽章からはすごくフツーになり意表をつく。裏切りもここまで来ると爽快、官能ですね・笑)、と言うか弦楽四重奏なんか典型的ですけれど、ルートモーションは先述のFバス・コントラバス等の低音部がキチンとやってるから良いけど和音のど真ん中に存在する旋律は埋もれがちで、下手をすれば和声部の動きを邪魔しがちになりそうなのを無理やりの音量差で持ち上げて輪郭化しているのはあれだけの数のフルーティストを集められると言う結局数の理論、無駄に多いと言うまたしても優雅の勝ちであります。
 それぞれの声部が渾然一体となって音楽になる、和音とメロディーの二本立て(ここにリズムを導入して三本立てにするのがポストバークリーの一つの形でありますが)で音楽足りうる。後者は歌曲全盛の前世紀に隆盛したスタイルで、映画音楽も実はその極点だったりしますが、今回はこのパート(200人近いフルーティストのビッグアンサンブルの後半)ではムムム…となったポイントが多かったのは、やっぱりそういう流れなんでしょうね。
 あ〜、今回聞きに行ったのは知人の素敵な、そして優雅な(実家住まいの社会人。と言うとどうしてもそういった先入観が・笑)女性が出演していたからです。