Lesson#127;ボボは死んだのか?Last Recording;1979.

何故でしょうか?僕周りの素敵な女性たちは皆、ヨーロッパへと旅立ってしまいます。愛しのヨウコちゃんはオーストリアへ、麗しのサナエちゃん(Tマノイさん、この娘ですよ、僕を28歳OLのような、ちょっと高揚したブルーな気持ちにする恋愛対象は)はイタリアへ。これはもしかするとポストコロニアリズムのポストとしての現象でしょうか?僕がいまさら南米の音楽に注目しているのが一応ポストコロニアリズムであるとすると、僕の周りの女性たちは進歩的なようですね。ああ、頑張らねば。
え〜、課題も第一部が終了したのでニブロールを見に行ってきました、などと下らない駄洒落を言ってしまうのが僕のイケテナイ程度の証左であります。いや、まぁ、その〜、と言う田中角栄の口癖を真似てしまうのも僕のイケテナイ…で見てきたんですよニブロール。やばい、どうしよう、すごいんだけど、何か書けって言われても何も書けない。断片的、と言うかサンプラーで細切れにしたものをバシッバシッ鳴らしている感じ。それぞれのシーンは流れ&統一感が見受けられる様でもあるんだけど仔細に見るとぶった切れてる。だから文章っていうものでは表現できない(と、ここまではダンスに関して)。
これに対し映像と音楽には流れとか、文脈とか、を感じることが出来るんですよね。結局、慣れた物=僕にとってルールが既知な物からはそれらを読み解けるのにそれ以外からは感じないって言う教育の賜物のおかげで違和があるのでしょう、ダンスに対して。って言うか“コンテンポラリー”一般に対して僕はそういうものがあるのかもしれません。なんせまだまだポストコロニアリズムとか、昭和の総理大臣とかから抜け出せないんでね。
ダンスに対して鑑賞中にとってたメモ(嘘・笑。実際は脳内のアクセサリーのメモパッドです・笑)を見返すと、二項対立と暴力、と書いてあります。なんだか暴力的だな、と感じた訳です。一つではない、と言うことは少なくとも二項対立であり、それがもっと大きな複数(そのうち最も神秘的なものは“3”でありましょう)について林立していることと、それに起因する複数項間の暴力(実際の“殴る蹴る”では無く“他人への過度の関心”見たいな物ですね)を見て取ったんでしょう。
No Direction, everyday.と言うコンセプトを聞いて“あ〜、ボブ・ディランなの?もしかして”なんて言ってしまうわけですが、多様性・マルチカルチャリズムがちらちらと見えてくるリーフレットの言葉ながらも指向性が感じられる映像のラストカットと舞台の“なんとなく大団円”な雰囲気は、超自然的な何か(神さまとか死後の世界とか)による統合への安堵とも取れなくもなく、細部のぶった切り感とは違いその全体は纏まった印象が強かったです。
繋がっているかどうか、と言うテーマがアフタートークで語られた訳ですけど、この世界は繋がっている、と僕は思います。本能的に(セックスや暴力と言った感じで)。
さぁ、これから課題の二部目に入ります。おやすみ皆様僕の今日の祈りは“ああ、ローズウッドのテレキャスってカッコいい。ジャパン・クラフトで少し小ぶりなところも。誰か下さい”といったものです。皆様にも幸あれ(特に誰かさんのイタリア旅行に・笑)。