Lesson#120;FunkMusicを聞きながらの殺しの犯行。

部屋が砂っぽいなぁ、マウスもざらざら言ってるしと思ったらここ最近の強風で屋内にまで砂が運ばれてきたようですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?久方ぶりに更新しますが、今日は『踊りに行くぜ!!vol.7』の福岡公演(@IMSホール)を見に行ってきました。その後の予定の都合上アフタートークにまで参加することは出来ませんでしたが。と言うわけで感想文です。例によっちゃ、例のごとくワタクシの文書など取るに足らないもの。もし今回ご出演くださったダンサーの方でここを見るようなことになった方々はあいすいません、御気になさらず。『ケッ!くだらねぇー』とコメント欄に書き込んでください。

んまつーポス

この世に“身体の動きを伴わないスポーツ”と言うものが存在するのでしょうか?僕の個人的(ということはすなわち思想潮流の底辺と同義である。と思いますが)見解ではその疑問への回答は否、となります。今回このグループに見る身体動作の多くには“スポーツ的なもの”が多く見受けられました。それはゲームであり、ルールであり、グループであり、リーダーであり…と言った類のスポーツを主観的に体験した経験のない僕の、ステレオタイプ的な“スポーツ的なもの”であります(何を考えているか、と言うとキャプ翼、と言った類の漫画やアニメだったりします。これぞ底辺・笑。あっ、アニメや漫画が低俗だ、などと言う気はさらさら無く、基本スペックしか持ち合わせていない、と言う意味です)。前述の通り身体動作を伴わないスポーツ、と言うものは無いように思われ、すべからくその種の活動には身体の動きが伴う、とします。その結果今回のダンスにスポーツ的な身体の挙動が組み込まれている、と言う状態が現出するのはスポーツと日常の動作、そしてダンスの境界のあやふやさを僕に突きつけてきます。因みに僕の母校、大分県立大分上野丘高等学校は男子が武道(柔道or剣道の選択)をしている間、女子は創作ダンスをしていました。もしこれが同一の単位として扱われているとしたら、大分の教育委員会において高校の単位認定をつかさどる部署の人々の認識はスポーツの中でも、ゲーム性・嗜(もしくは被)虐性においてはかなりコアな武道もアートよりな身体表現と人格形成の上では何らの差異を認められない、としているようですね。



真崎千佳

 僕はこの方のダンスをとある団体の会議室で見ることになったのですが、そこは如何せん会議室。ダンサーがダンスをするに適した空間と言ったものからは程遠く、そのとき彼女の持つ全てが見れた、とは思いませんでした。その僕が以前に見たダンスのアップデート版、とも言うべきものを今回ちゃんとしたステージで拝見することになりました。そのときは大まかに言って二部構成であったものが今回は三部、もしくは四部構成になっていました(あくまで僕が主観的に見たところでの構成ですが)。強烈に印象に残っているのは中間部で見られたメカニカルな動き、であります。ここは依然僕が見たときには無かった部分であると思います。使われた音楽からの影響も大きいとは思うのですが、ここでの彼女の動きは中世のメカ―カラクリと称する物に似たような―と言ったもので、人が憧憬と供に共存しえた時代のもののそれを想起させ操作されるものと人間の万能感がまだまだ健全であった頃の…ってあんまり関係ないことを書きそうで、かつそれが長くなって何が書きたかったのか解んなくなりそうなのでやめます。
宮崎駿的なグロテスクさで始まる訳なのですが、これはかの映画は成人の女性、と言うものが実は軽く穢れたものとして(て言うかロリータ・コンプレックスの一歩手前の処女性の神格化があると思うんですけど)描かれており、今回ダンサーの自意識としてSEX(行為、では無く性別としての)がどうあるのか?と思考をめぐらせると“女性”と言うキーワードが見えてこなくも無いかもしれないかもしれない、と言うあいまいな断定をしてしまいそうです。ダンサーにとっての身体はミュージシャンにとっての楽器のようなものでしょうから、これって非常に大事な問題だと思います。いくら今日男性⇔女性が単なる両極に過ぎずデリケートな問題だとしてもね。なんにせよ動きは依然見たときよりもダイナミックかつ面白いものとなっていました。
 


納谷衣美×山下残

 よどみなく流れるものは、人為の作るものとしては、あらかじめ書かれたものである。と僕が思っているのは入り口で配られた資料の中の解説に“初演から余り変わっていない”といった趣旨の記述を読んでしまっていたからでしょう。しかしそれがどうしたと言うのだ。と言ったパフォーマンス。そういったある種の円熟美、からみえてくるのはプロレスですね。ガチか?ヤオか?と言った議論をも超越した格闘技がこの世に存在し、リングの上には勝敗と言う生死の意訳よりも美しさが表現されてしまうのは何とも奇異ですが、今回の演目にもその奇異さが見えるような気がします。プロレスの予定調和的な試合運び、を今回のコミカルさに置き換えれば。ステージを降りて客席にまでなだれ込んでくると言うのもやはり、プロレス的手法ですからですね。


康本雅子

 最も良く出来ている、と言う印象に強かったこの方のダンス。身体の特性も、その動きもダンス、と言うフィールドの上ではかなりの優、であることは間違いありません。しかし僕の感じた退屈はそこから来るものではなかったか?と言う鑑賞中の感覚は今、何も言えないから悔しくて“つまらない”なんていっているんでしょう?と言う自己嫌悪によって皆様にも共感し易いものとなるのではないでしょうか?(余りにも“?”が多すぎる文章ですが読み辛い、と思われた方はどうぞ読み飛ばしてください。強烈なものへの畏怖、をスノビズムで解消しようとした僕。を描写しているに過ぎない文章ですので)。身体表現、と言うよりは舞台芸術といえる今回の演目はしかし“よく出来て”いなければ成立し得ないものです。音楽もレディ・メイドな物ではなく明らかにオートクチュールであると思われ、舞台の全てが創作者(≒ダンサー)のコントロール下にあることはマイルス・デイヴィスが初期にギル・エヴァンスとタッグを組んで表現しようとしたそれであり、鉄壁の構築美が出現します。ああ、マイルスなんか引き合いに出すほどだから、僕には何も言えないわけだ。
 


Ko&Edge Co.

 パープル・ヘイズ→エイリアンの卵(もしくはベルセルクベヘリット)→牛の出産。この流れを僕が想起した(と言っても最初の“パープル・ヘイズ”はそのまんま会場に流れていたんですけどね。オリジナルのアレが)として今回の彼らの演目が皆様に伝わるのか甚だ疑問ではありますが、どうでしょうか?自分でも、どうやっても繋がらない三つ、をつなげてみて皆様方の彼らへの興味が高まり『見に行ってみよう!』衝動がふつふつと心の底から生まれる、と言う効果を狙っているんですが、皆様興味を持たれたでしょうか?パープル・ヘイズがフェイド・アウトし…(とあんまり具象な事を言うと批評臭が強まる&ネタばれなのでやめましょう。けっして僕に文章力がないから逃げている訳ではありませんよ!文章力が無いのは事実ですけど・笑)…最後は感動的なのです。個人的には泣きそうになりました。動物奇想○外やNHKの動物ドキュメントを見ているときのように。何故かそれまでものすごくグロテスクに見えていた彼らが愛しくなるんですね。不思議、と言うかこれが研ぎ澄まされた身体表現と言うものなのでしょう。
いまさら気が付きましたがジミ・ヘンドリックスがこのパープル・ヘイズを録音したときのグループは三人でした。と言うことは誰それがジミで、誰それがノエルで、誰それが・・・(ヤヴぁい!ドラマーの名前を忘れてしまった・汗)、と言うような意識があったのでしょうか?

で、総評的なことを言えばコンテンポラリー・ダンスに招聘される音楽と言うのがかなりエキゾティシズムに溢れていると言うか、トライヴァルと言うか、そういったものなんだというのが興味深いですね。ダンサブルなワルツ、バレエ、クラブよりは中近東〜アジアな物を感じました。そういった意味ではジミもそうなんですけど。

 別に僕はどっぷりとコンテンポラリーなアートやダンスにはまっている訳ではない、乃至アウトサイダーを気取りたいんですけど、僕は敵意を抱くものを積極的に摂取しその後惚れてしまうということが往々にしてあるのでやばいですね、そろそろ。