Lesson#113;誕生席/誕生石。

 プロレスラーの肉体は屈強そうに見えて(と言うか実際に僕の肉体なんかとは比べ物にならない強度を持っているとは思うのですが)、その実リングにちょこんと座った姿を後ろから見ると赤ん坊と見まがうほどである、と言う事実に少々困惑しております(嘘・笑。くすくすと笑っちゃってます。こんな事書いてるとどっかの団体に殺されそうですが・汗)。
 今日は台風がすごいことになっていました、福岡市内。こんな中天神にまで出かけていく人々(我が妹&その友人含め)はどんな神経してんだ。と言う疑問は経済学者と心理学者が消費についての悦楽に関しての論文を体系的にまとめてくれることを待つことにしましょう。僕には理解できないことを、どえりゃー(なんといきなり名古屋弁。でもその方が雰囲気でるんで。何の根拠も無いですけど)学者さんが論理的に解説してくれることでしょう。
いまボリス・ヴィアンの『日々の泡』を読んでいますがここに登場するシック氏の異常なまでのアカデミズムの探求が行き過ぎて素敵な女性を失う、と言う現象にどうしても自分を重ねてしまいます。ストイックと言う語の源はストア派などの“ストア”つまり学究にあるらしいのですが、まぁなんでしょうか。僕だって綺麗なねぇちゃんと遊びたいですよ(出来ることなら・笑)。

読後『日々の泡』ボリス・ヴィアン
このラブストーリーから読み解かれるのは、コランにフォーカスすることによって現代のニートやフリーターへ警鐘を鳴らす、もしくはシックの二つのターンテーブルからHipHopの源流を感じる、ことであるのか?確かにそこも面白い点ではあるが、この物語の真価を堪能するには女性人の悲しみに感じ入るしかない、と思います。
病に倒れるクロエ。死にゆく魂を描く物語(しかも死ぬのは決まって女性である)を最近はよく目にしますが、ここでは病の現実味が薄められているからこそ、死についての(本人のもの、それを取り巻く人々のもの、両方の)悲しみが如実に表れています。シックに尽くすアリーズ。彼女の美しさが依然として健在なのだ、と言う現実。学究に全てを注ぎ、結果そのアリーズもその他諸々も失ってしまうシック。美とストイシズムの同化はいつまでも実現されないのか?
金が無ければ生きることも、何もかもままならない世界は悲しみと美しさに満ちており、僕らの世界は悲しくも美しくも無いという現実に著者の素晴らしい創造性に唸らされるのであります。