Lesson#110;カズのオールド・スクールなカッコよさ(≠格好良さ)。

 ものすごいノリで、過ぎ行く夏を惜しむように、ブラジル音楽ばかり聴いています。まぁポルトガル語は何言ってるのかまったく持ってわかっておりませんが。

 先日も亡くなった人(ナンシー関さん)についての話を書いたと思ったら、今日も父のよって訃報がもたらされました。

 おじゃる丸の作者でいらっしゃる犬丸りんさんが亡くなられたそうです。報道によれば自殺、とのことです。あんな作風からはそんなに切羽詰った感、と言うのは感じられなかった。と、幾人からの声をネット上で読むことが出来ます。僕も漠然とそんな風に思っておりましたが、よくよく考えるとアーティストと作品の関係とはそんな生易しいものではなく、転倒に転倒に重ね、凝縮と希釈の反復、と言ったもの所産である、とすべきなのですね。

 おじゃる丸、からダークな側面を抽出すると言うのは実際そんなに難しいことではなく、劇中で薄井幸代(漢字、これで合っているんでしょうか?)28歳独身の描く世界などが最も顕著なのでしょう。と言うか、精神分析家の先生(特に芸術家、についての研究をなされている方)などに見ていただければそれこそ作者の諸々が暴かれてしまいかねないので、そこはやめて欲しいな、と思うところなのですけど。

 何よりもご冥福をお祈りします。

さて、今日は9.11特集が色々な番組で組まれておりました。と言っても12時間以上の時差のある国での出来事でしたから、こちらでの朝のニュースではさしたる騒ぎ様ではなかった感があり、今朝のTVで僕の覚えていることといえば、ペンを回す派か回さない派、とか、小倉さんが熱く(と言うより立秋よりも遅れてきた残暑、と言った暑さをもって)語るシューマッハ、とか、秋の三大フルーツ、だとかであります。

 先ほど事件の起こった現地時刻、と言うものに合わせて母が姿勢をただし、あんたもそんな格好(座布団敷いて寝っ転がってました)してるんじゃ無いわよ、と言われしぶしぶ胡坐を組み、TV画面に映るアメリカ人の黙祷する姿、と言うのを見ました。

 こちらも謹んでお悔やみ申し上げます。

 とは言ってみたものの、単純に『可哀相にねぇ』とか『何で死ななきゃならなかったのかねぇ』とか思っている人が大多数なのにものすごい違和、を感じています。

 なんと言うか『別に抑圧されたものの暴力を支持するとかじゃなくてね。そう思うだけでは思考停止ですよ。何にも変わらないじゃない?暴力への嫌悪、理不尽な死への憤りをことばにするだけじゃ、5年と1日前の世の中と。』と言う感じです。

世界が変わった日とは言え上述のように時差がこんなにも有るこの国では、喉もと過ぎれば、であります。僕の違和が不当ではない、と皆さんに支持して頂けるなら。何かが変わったとするなら潜在的な不安、と言うものに少々意識的になった、その上でのマス・ヒステリー、集団精神病理、暴力性の解放とその落とし前をつけることの難しさの再認識、を経験したことでしょう。

何かを変える。自己による自己の改変、と言う種類のものでは無く、ある対象に働きかけることでその対象の何かを変える、と言う種類の難解さをまざまざと突きつけられ『結局僕は君を“変える”ことは出来ない。“変わる”のは君にしか出来ないんだ。』と今文字化すると何とも不定形なモヤモヤとした、中学時代の恩師が一般的な視座からすると道から外れようとする生徒(髪を染めたり、タバコをすったりするような人ね。言っとくけど僕じゃないよ・笑)に言っていた台詞が思い出されます。

そういえばおじゃる丸に注目しだしたのも中学時代だ。う〜んシンクロニシティか?(笑)。