Lesson#97;ズームイン/アウトという誤差。

今日もすっぽかされた(笑)。昼食を一緒に、と言っておきながら12時ごろになっても相手からの音沙汰が無く『ああ、こりゃまだ寝ているな』と思いながら目的地まで行って恐る恐る『着いたよ』とメールをしても返信が来ない、10分待っても来ない、おばちゃんにせかされついついオーダーしてしまっても来ない、その頼んだ品が運ばれてきても来ない、半分くらい食べた所でやっと『今起きた』と言う返事。僕はゲラゲラ笑いながら末尾に“(笑)”をつけて返しました。

え〜、久しぶりに美味しいうどんを食べ、懐かしい六本松(昔住んでいた学生街を訪れる。そんな情熱大陸みたいなことをまだ学生のうちにやってしまう、と言うのはなんとおもしろい。一人で歩いてるのにカメラクルー話しかけて見たりして、『ああ、ここにあった○○、もうなくなっちゃったんだ。毎日のように来てたんですよ。』とか・笑)のブックオフとボーダーラインレコードで買い物をし、市の美術館へ横山大観展を見に行きました。この展覧会のチケットをインターンシップ先で頂いたので、と言うことに義理立てするとかいったつもりではなく、感想を書いてみようと思います。

この展覧会、彼の人生を時系列に沿って紹介しているので最初の方は学生の頃の作品などが続くのですね。ここら辺は正直『良いの?これ?』と言う感想を持ってしまい、資料的な価値が芸術的価値を上回っていると作品群ではなかったかと思います(卒業制作の童の顔の表現が漫☆画太郎氏のそれにそっくりである、と言う大観の影響力大きさをsっ昼ことが出来たり資料的価値は大、ですね・笑)。

そうは言っても時代が下がると、いやマジすごい、と言う作品群です。特に没骨法で書かれた作品が早い時期にあったのですが、これらは何ともいえない感じですね。水や沢山の(日本画では多くモチーフとなる)自然物は輪郭線が不定形であり、それを紙の上にトレースするには一本の線をもってしては不可。これは手法としては良く出来てると思いますね。ものの魂は輪郭線に宿る、人ならばその体皮に、と言うようなことを依然来たことがあるのですが、自然は総体として一つ、と言う神秘主義的な事も言い出しかねませんね、あの絵を見た後では。

最後期の作品は超現実主義に日本画が最接近した瞬間、と解説されていましたが、日本画が実際にあるものと、心象風景をミックスして描くと言う性質上、常に半分シュールレアリスティックになっているのだ、とする方が正しいんではないでしょう?見たものから受ける超現実を描いてるんだしね。西洋絵画がこっちに向かってきたんだ、と。

彼の思想を詳しく知っている訳ではないのですがやはり大自然讃歌のようなものを感じます。竜とか蛟も実際はその目に見えない自然の力の映像化だったのではないかとおもいます。前述の通り現実よりも人間性が激しく投射されるのが日本画であり、東洋思想の精神的な面がダイレクトに視覚化されているので、神秘的になったり、神がかったり、と僕の非力な精神性では如何ともし難いもの満載になるんでしょうね。圧倒されるんだけれど何とも言い難い、と言う原因はここにありそうですね。

と言う感想ですがどうでしょうか?え〜、これを読んで見に行ったけどガッカリだ!とか、大観の思想はそんなもんじゃない!とお思いの方はどしどしとコメントなり、トラバなりしてください。