Lesson#65;エミー・フォン・N夫人とのブランチ。

積極(好意)的に獲得される何かがアイデンティティになり、消極的に獲得さ(押し付けら)れる何かが劣等コンプレックスとして表層化する。というのに授業中に気が付きました。ここでの獲得する際の態度、というのは快感原則に沿う、と言ってしまうと論理的にばっちりしたものになるのかな、とも思うのですがそうではないですね。一見つらい仕事、のようなものでも身体的、精神的な苦痛が遠く知覚し難い物になると、そんなことはなくなって、獲得時、実は積極的であった、といえるのではないでしょうか。昨日の一限の授業で、学外(内)の課外活動について話す、という機会があったのですが、同じグループの男子学生の話し振りが、今日の授業中のひらめきに直結しているように思います。バイトの話が出たのですが、今までのバイトは楽しかった楽しかった(そして今のバイトは楽しくない、やめたい)と僕が一人で懐疑的になる中、あれがマジつらかった本当にありえねぇ、というその学生について観察すると、実は望んで体験している、と思うわけです(僕の発言に関する観察は『面白いと思わないと続けられないほどつらかった』のか『本当に楽しかった』なか、主観ゆえ判別つきませんが)。僕にとってのつらい体験、ガン治療というのが実は前者になっているのではないか、という疑いも含め。就活の面接などでは『今までの人生の中で一番つらかったことは?それをどうやって克服しましたか?』と聞かれるらしいのですけど、今回みたいな帰結を用いると『本当につらいことって言っても、実はうすうす感づいている無意識があって、積極的に体験しようと思っているのだ。逆境にも自ら果敢に立ち向かう姿勢がどの程度あるのか、評価したい』という意思が無意識に面接官たちの中にはあり聞いてくるのではないかと思います。僕のつらい体験、というのは科学的・論理的には予測不可能な病苦、であったわけですが、『大病にでもなって今自分のいる現実から逃避したい』という(無意識下の、ではなく有意識下の)願望が睾丸にがん細胞を宿したのではないか、と。克服したのは手術と抗がん剤治療です。僕は何にも努力してはおりませんよ、テヘ。
なんにせよ、無意識にまで下って就活を議論すると面白いですね。こんな話を面接でしたら、こいつは危ない、と落とされそうです。