Lesson#62;“何処も同じ”代替可能性も、アイデンティティの崩壊です

ちょいちょい、そこのお嬢さん。おもむろにイヤーフォンなんて着けようとしていますが、貴女は音楽が聞きたいのですか?本当は遮断したいのでは無いのでしょうか、自分を外の世界から。外環境(“環境”という単語の定義からいえば接頭の“外”は要らない様に思えますが)、自己の拡張の外側が主体である貴女にとって非常に辛いものであるのは仕方が無いことです。それは太古の昔、サルが木上から降り草原で暮らし始めたときから、もしくは生命が細胞膜によって内/外の区別をつけ始めたときからの始まる恐怖ですから。そういった地球史学、生命史学(そんな史学のカテゴリーがあるのか知りませんけど)なことを言っても私には関係ないわ、なんて思われるかもしれませんが、貴女自身の個人史を振り返ったときはどうでしょうか。子宮から出た瞬間、胎児は初めて外の世界を体験します。それまで一繋がりであった母胎から文字通り切り離され、限りある空間であった子宮のように、自己と同一視できるほど、全ては君が思うがまま、全能感さえ与えてくれる、暖かく寛容であった世界は消失し、無限の広がりを持つ世界は貴女への最初の攻撃として“窒息”、そして“寒さ”を強いたことでしょう。生が直接的に脅かされる攻撃、と言うのは何も知らない赤子にとっては、逆に何も知らないがゆえに、限りない恐怖であった、と見ることが出来ますし、フロイトもこれについて言及しています。
安易に比較すれば子宮の中に流れていた音楽は母親の心音であり、緩急そして強弱などはあれ、そこに律動を見出すことは容易、と思われます。きっと貴女が今から聴こうとしているミュージックの中にもそれは聞くことが出来るでしょう。胎内でのことなど関係ない、なのか、胎内の中のことだから重要、なのかはわかりませんが、心理学の世界では幼少期の体験が成長した後も大きな影響を及ぼすと考えられていること、と、三歳くらいまでは胎内の記憶が残っていること、をあわせて考えると僕には今週のヒットチャートやファッション誌のカルチャー欄に載っているディスクレコメンドよりも貴女が音楽を聴くことに関する欲求について関係性が深いように思われます。
本当に現実世界とは非情なものです。イヤーフォンから流れてくる音楽も現実といえば現実ですが、今さっき貴女が目を通していたペーパーに比べれば、リアリィティの濃度はゼロに近似できるほどでしょう。意識的な世界に限って言えば、ですが。貴女を外環境から遮断し、自己拡張可範囲内での自由をもたらします。そこが自由なのは、本当に何の脈絡も無い音楽を聴く、という行為が、i-podが存在し、音楽のアーカイヴィングも進んだ今日でもありえないから、です。選択の上であなたのポータブルオーディオシステムの中にその音情報は存在しています(実は日本のラジオはこういった膠着状態に対する抵抗勢力としての能力が少しはあるのですが、今日ではそれに期待することは難しいようです)。
ああっと、うだうだ喋り続けたら居なくなっちゃたよ(笑)。
あのですね、僕みたいに相当意識的(コード進行が〜とか、このループは〜とか)に聴いていない限り、個人が、街中で、音楽を聴くという行為はチョビッとですが、逃避の臭いがするんですね。かな〜り無意識、な感覚で。現実の逃避先が内面であり、そこが自身にとってコントロールできる自由な空間であるからだと思うんですけど。
でも、ちょっとスタンダードから外れた人たちはその内面ですら安息では無いんですよね。僕はなんとなく解るんですが、すごく幼児的な恐怖がふつふつと沸き起こって(何も居ないのに、お化けがいる、と言う子供のように)、どうしようもならなくなる。生活に支障が出ると神経症。“何処にも逃げられない”、“自分ですら敵”というのはすごく悲しいのです。