Lesson#60;用が済んだら終わり、って言うのは…

強烈な母性、っていう抗し難いものを持った人との目と目をガチであわせての(2人っきりだとしたらどんなに楽しいか、という願望を抱かせる五人グループでの)会話が授業に繰り込まれているという幸せにどうしたら良いのでしょうか、僕は。日ごろの教室で見るようなとても工学部にいる女子とは思えない、キャバ嬢と蛯原友里とnon-noモデル二、三人(藤澤恵麻でも田中美保でも誰でも良いです。彼女らは蛯原友里ほどキャラクタライズされていないので)を全部混ぜて10倍に希釈した(にもかかわらずそれらのイメージを抽出したソースの〝くどさ〟というものが一向に消すことができない溶液としての文化履歴の薄っぺらさを露呈する)ような容姿の人々へは向けられない好意、を持って今日の一時限目は参加できることができました。
その女性(って言ってませんでしたね、性別は。僕が好意を感じるのが女性だけではない、という特筆から『また猫の話しか!』と思ったりする人もいらっしゃるかもしれないので一応今回の行為の対象が〝女子大学生〟であることを明記しておきます)について日記に記するまでの何か、を感じたのは彼女の容姿が穏やかで柔和だったから、でもなく。プロントでバイトしている→その制服姿を軽く妄想し『この人に注文したい(この男性店員では無く)』という店頭での一男子学生の心理に思いをはせたからでもなく。出身が安心院であり(乃至僕との同郷、という同一性と)僕がその地へ抱くイメージ『ルーラルで牧歌的』とそういった地勢の生み出す女性のイメージ『おおらかで包容力のある、その実芯は強い』を持って彼女を眺めていたから、でも無ありません。
一番何かを感じたのは、僕がかかりつけの歯医者の帰りに立ち寄るけやき通り沿いの書店を知っていたからです。さらに、あのお店を『かわいらしい』などと評するあたりが、僕に親近感と畏敬を与えたのでしょう。僕が軽い憧憬を持って月一で訪問する書店を楽々とその個人文化史に包括している、って言うね。
と、書いてきましたが『ああ、この人はわかってるな』ってことが言いたいだけなのでした。服飾はまんまnon-noであったのですが、僕があのほんの読者一般に対してクリティックなのはその文化のバックボーンが弱く、軽いジャブでものけぞって(背骨=バックボーンが後方にきつく湾曲し、と言う駄洒落・笑)倒れてしまいそうだからです。もっと良い本、音楽、映画、演劇、絵画、にふれていただきたいのです、これからのこの国のためにも。Neet、引きこもりを助長しているのも、そして治癒するのも貴女たちなのですから(non-no読者へのお願い・笑)。 

ところで、タマノイさんとかはどんな雑誌呼んでますか?こと服飾と文化に関して。