Lesson#49;月経の来ない♀、射精できない♂。

最近は暇が無い、暇が無い、と言って日記の更新を怠っていたら菊地成孔さんは毎日日記(って言うか速報)を書いていてすごいなぁ、お忙しいだろうに、などと思っていたらなんと明日は本学記念日とか言うので学校が休みでした。あらビックリ。髪切りに行こうかと思ったけど、担当の人がおやすみらしいのでこれは駄目。課題でも(『でも』なんて言ってられませんね、学業が僕の本分なのに)します。
先のCanCam文化へのクリティックな発言(の割にはエビちゃんこと蛯原友里さんの恩恵に預かり、ページヴューが格段に伸びましたとさ・笑)以来、雑誌メディアとその情報の受け手との関係性を少〜し考えて見たのですが、この文化層が固着的(新しい雑誌、って言うのが生き残るのが難しい、ちょいワ○なんて珍奇なものを引き合いに出さないとどうにもこうにも立ち行かない、っていう世界だと勝手に思い込んでおります。ところで『ちょ○ワル』を全てカタカナで書くとハングルのように見えませんか?『○ョイワル ジュセヨ(チ○イワル下さい)』とか・笑)なのは相互の選択性が問題なのでは、と結論付けることにしました、強引に。何せ思いついた瞬間『ヤヴァイ、俺天才だ』とか思っちゃうぐらいですからね、勝手に結論出すのなんて行為が“強引”にカテゴライズされるわけが無いのですが。
商業性と情報の発信がかなりの強度で結びついているのが寄与しているのだ、と思っていたら、選択性を支えるのはそれだけでは無いだろ〜やっぱり、僕の女友達の一人がいけて無い理系学生を生理的に受け付けないって言うのは実の所トラウマティックな何かが根っこにあって…、とかこんがらがって、もうどうでもいいや原因は、学者に任せよう、ってことにします(超投げやり・笑)。
ある雑誌の(購)読者である、というところが一つのアイデンティティとして機能している(全国○○千人の△△読者の皆様こんにちは、なんて書き出しがOKであるということからそうしますけど)ことが、今日の若い人(と限定するのは年長者よりも種々の文化への被爆が少ないと理由であり今回の最終的な問題へ至る前提です。要するに後半で若者の問題を提起します)の個人としての脆弱さの原因ではないかと思います。non-no、anan、CanCam、これらはファッションに特化した(ananはちょっと別だけど)様に見えて、文化を捏造しようとする態度の見受けられる雑誌のように思います。文化総体を取り上げる、と言う役を担う総合誌というカテゴリーが既存である中、こういった“隠れ”総合誌的なものが今日の雑誌界のメインストリームだ、というのが若者文化を単線化している(これらの雑誌の文化欄、様は写真より文字の多いページですが、は大変簡素、陳腐であります。理念ですから言葉の方が優位になるわけです)から、僕らはこれだけ多様な文化の存在、とそれを認識できる世界に生きていながらそれを知ることを選択しないのです。総じて単調な文化、服飾一つ取ってみてもそうですが、ある集団の服装を見たとき、それに統一感が無い、ということは現在の若者では余り無いような気がします。これは相互的選択、グループが個人を個人がグループを、と言う力学の元に起こる現象であるといえるでしょう。そして一転に集約されていくと非常に脆い文化しかもてなくなる。ドグマの崩壊とも取れる流行の推移によって容易に個人がダメージを受け易い構造ではないかと思います。
エビちゃんの着た服が即完売、と言う事態が起こる理由は彼女のカリスマでは無い(別にご本人に『あんな女、下らない』などと評価を下しているのでは無く)と気付いている人が果たしているのか?彼女もまた“(彼女の着た服を買う人以上に)着せられている人”で有ろうことが僕には感じられてなりません。あなたが本当に着たい服はなんなのですか?と言う問いに彼女はどう答えるのでしょう。そして世のOLに多大な影響を及ぼす彼女がどれほどOLという存在から乖離しているか。
強靭かつ広範な文化をその内に秘める人は総じて魅力的であります、捏造されたカリスマ以上に。素敵な恋愛と結婚を。

↑読んだけどギャグにしか思えませんでした。これがすんごくリアルな話だとしたら、女に生まれてOLになりたかった、と僕は思います(あっ、でも彼女のごとく可愛くなければいけませんが・笑)。