Lesson#45;僕はハード(キー)パンチャー。

僕は若い世代として責任がある、と思います。この国のこれからに対して。別に政界に打って出よう、などと言う事はいたしません(でも、やってみたいですね、国会での居眠り。きっと講義室の一番前の席でコンクリートの混和剤について云々かんぬん聞きながら睡魔の誘惑に屈する、等と言う午睡より数段優雅な休息が取れることでしょう)。この国の文化についてです、僕が何とかしようと思うのは。何でいまさらそんなこと言う様になったかと言うと今日後輩から『(ある地方局の)5時代も6時代も7時代もアニメばっかりなんですよ』と言うメールを受け取ったからです。アニメ、コミック、アニメ、アニメ、コミック、コミック、コミック、アニメ…という文化に僕は少々不安です。これらのアート性がとても低い、だとか、ストーリーが稚拙だ、とか言う訳ではなく(と言いつつ、背景がまったく書き込まれていない/絵のタッチにユニークさが感じられない/決して読むものが痛い思いをしない少女漫画、などを見ると、妹の美的センスがイマイチなのも納得が行き、悲しくなるのですけど)、僕が憂うのは『それだけしかない』と言う状況です。ここで僕がその“ある地方局”に対して否定的な感情を抱いていない(むしろ評価している)ということの証明のために、アニメ、アニメ、アニメ→経済、市場、株式といった感じの今の日本を代表する二極分(文)化、“一時代前の経済的指標の絶対視、と『萌え』と言う教条(理解できない人は信仰することが出来ない新宗教“オタク”)”のみを取り上げているのか、と見せかけ、看板番組TVチャ○ピオン〜演歌専門番組(ここにだけこの国には珍しく、アメリカのラジオ文化とその広告体系がキチンと見られる)〜木曜の夜と言う大変微妙な時間帯での、セレクトも僕にはうれしいB(もしくはギリギリでB、と言ったその実C)級映画と言う“実はアニメしかやっていないように見えて、相当な多様性を誇示しているのだ”と言う唯一性を記しておきます。この散らかりよう乃至マルチカルチュアリズムはフジテレビなんかの女子アナの方向性なんかに比べると相当にハードコアだと思いますよ。僕みたいな小心者にはこういった統合不全(と言う天才の性質)の様相を呈する会社の社長など出来そうにありません。経営陣の方々は相当にタフ(もしくは頭のネジが緩むどころか、ネジ穴にチュッパチャップスの芯が刺さっているの)だ、とお見受けします。
と、話がそれてしまいましたが、単一的な文化と言う“もしかして日本は単一民族国家だと思っている人が何人居るのか?(きっと三人に一人は信じて疑わない)”という僕のふとした疑問を誘発する事態は変革していく必要があります。僕自身アニメも漫画も大好きですが、映画・ジャズ・書物(非コミック)と接している時間の方が遥かに多いのはそこに何かしらの強烈な刺激を感じているからでしょう。印象派の絵画を見に行く、ということもいいことだと思います。なぜならあの一派、様式といったものから自己を開放し個人的印象で筆を走らせる、と言う感情とエゴ丸出しの人たちなので。共感性と移入の能力の低い(そうでもなければ簡単に人を殺すなんてことは出来ませんからね。オタクを女子高生が憎むのも同じですよ)今の若い人が衝撃を受けるのに丁度よいと思います。
単線では決して行き着くことの無い地平と言うのがこれからの僕達の進んでいくべき場所なのだと思っております。ターンテーブルも二つになった瞬間から音楽が大変なことになったのです。報道ステーション(というか種々のニュース番組は)もコメンテーターを二人にするといいでしょう。