Lesson#41-2nd;うそ!せめてキャンキャンにしてよ♪♪♪

あれは重過ぎます。書店で手に取った瞬間、その重みに購買意欲がそがれてしまうのです。本ごときが重い、などとは、あぁ、腕鍛えないとなぁ〜。これじゃお姫様抱っこもままならん。そんな訳で妹に頼まれnon-noを買って帰ってきました、九大生協理系書籍部で。さっさとファッション・ニュース入荷しろよ!こんなに時間かかるんだったらジュンク堂で買うんだったよ!と、カウンターのおばさんの接客態度に怒り心頭。ベテランだからって学生なめんじゃねぇぞ!僕が負の感情を込めて“生協の○○さん”とかWeb上で書いてやるぞ!いつも何かぶち壊せるのは新しい人間なんですからね!と怒りをどこかにぶちまけないといい加減どうしようもなくなってきたので書いてみましたがいかにも稚拙。物書きとして身を立てて行こうなぞと思うのなら、恨み辛みですらエレガントでなくてはいけませんね。頑張ろう。
で家に帰り着いてnon-no読んでますが、つまんないですね。いちいちページの構図とかがごちゃごちゃしてて読んでて強烈な生理的不快感を感じてしまいます。余裕が無いからパラパラめくっているだけでスンゴク押し付けがましい印象。優雅に一ページ、一ページゆっくりとめくっていく、なんてことが出来ない。というかそういう行為が念頭におかれていないので仕方が無いのですが。僕は将来出来るなら、ミセスか婦人公論の編集部で働きたいです(理由は両方読んだ事が無いから。そして女性はよく年上を好きになるから)。
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韓国との付き合いは上手く行きそうで良かった、などと思っていると高校生が中学生を恋愛関係のもつれで殺害する、なんていう事件が起きていてビックリですね。常々愛することと憎むことは同じことだ、と言ってきた僕ですが殺意にいたるまでの愛情と言うのは昼ドラを見ていただければわかるとおり大変にドラマティック/悲壮/究極なものです。そのような愛情が中高生に醸造できるか、について僕は否定的にならざるを得ません。もし僕が人様を手にかける様な事があれば、僕を殺して自分も死ぬ、と言うハードコアな愛情(と、その至ところの殺意)を僕に注いでいるのは母親ですけれど、そんなものを彼と彼女が相互に持ちえていたのか、と。きっと殺意の沸点が低いんでしょうね、今の若い人たち。先週のギャルサー(妹が見ていたので僕もちょっと拝見しましたが)で『うざい。死ね。』なんてのは挨拶みたいなものだ、なんて表現がありましたけど、自身の願望が日常頻発する言語表現に結実していると言うのは抑圧の欠如ですので、神経症になれないと言うヘルシーな側面を持ってはいますが、今回のような事件を誘発することになるんですね。僕が抑圧された感情を文章化し自己に向き合う、と言う作業によって自身を正常に保とうとしているところ、回りの人たちは抑圧と言う機制そのものをなくしている。抑圧による病、神経症などを僕が今頃真剣に考え出したかと思うと、時代はもっとすごい病を心に有する所まで来ていたことに、自分の時代への対応の遅れ、を実感します。