Lesson#33;“弛緩”と言うテーマ

必ずしも忘れるから、と言うだけで誰かの死を乗り越えられる訳では無いのだろう、と僕は思う。それだったらふと思い出した瞬間に僕達はその死に直面したその時のように、涙を流さなければならない。嗚咽と供に。それが起こらないとしたら、きっと精神構造の変成が起きているのだろう。強度の向上や、回路の組み換え、抽象化、抑圧…。僕は二週間前に知人の死を体験して、結構泣かされたし、葬儀では悲しすぎて吐き気がした。一種の心身症なのでしょうか。強すぎる感情というのが胃を萎縮して、昼のファミレスで食べた酷いカルボナーラとドリンクバイキングのコーラがもう憎悪の対称にしかなりえなかった。僕の精神構造はあんまり変化していないようで、今でも彼のことを思い出したりすると、悲しく、寂しく、そんな気持ちを支えて欲しいと、安易に甘え、他人に縋ろうとしてしまう。そういう訳で昨日の女性と来週も思い出の饂飩屋(郷愁から過去の過ち、黄昏流星群までいろいろな物がつまっているお店です、僕にとって)で食事を供にする約束をし、彼女を鏡に僕が彼の死後三週間と四日(僕がその事実を知ってから三週間と三日)過ぎた僕自身に向き合うこととなります。以前桑鶴君とのセッションでは声が(喋っているそのときは気付かなかったのですが)震えていたことから、どんどん沈んでいく感情と言動が一つになっていく僕にとっては稀有な状態に自分がなっているのを意識させられましたが、それから一週間と六日後の僕はどう変化しているのか?を彼女とのセッションを通し客観的に捉えることが出来れば、と思っています。精神構造の変化は存在したのか?
今朝、その女性からのメールを見て、抑圧していた彼の事が思い出され、帰途に見た、昨日の大雨で淀んだ川に映る灰色の空が、今この瞬間がこの世の終わりなんじゃないかと思うくらいの悲愴感を漂わせていました。でもその川を見る前、ほんの五分程前、僕は電車の中で三分間インスタント恋愛乃至性衝動(もしくは逆に性衝動乃至三分間インスタント恋愛)の中に居たのです。やはり僕は重層的な人格構造をしているのだと思います。悲しみにくれる人格が、恋に落ちる人格を見て、羨み、罵り、殺意を抱く/恋に落ちる人格が、悲しみにくれる人格を見て、嘲笑し、慈しみ、愛を感じる。単一の人物が複数の、しかもかなり性格の違う人格に引き裂かれているというのは何とも興味深い(って自分の事なのですけど・笑。自身のことも他人事に思えるのも多重人格のなせる技・笑)。なんにせよ、これ以上他人の死を撒き散らすのはよそう、とも思いながら伝えること、言いたい事を言うこと、をやめてはいけないとも思うのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今朝学校で偶然桑鶴君に会いました。勝手に人のブログのURLをアップするな、といわれましたが、そんなこと言われただけでやめるようなタマではない/編集するのもめんどくさい/むしろ今日もアップしたらおもしろい、ので再記しますhttp://blog.livedoor.jp/processiontopeace/。怒らないでね(笑)。その彼に聞く所によると僕が火曜一限にとってる高年次教養科目の先生は心理学の先生でカウンセラーでフォーカシングの研究をしているらしいのです。その先生をガイドに僕もフォーカシングにチャレンジしてみたいですね
(フォーカシングについて→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0)