Lesson#24;順番は守ろうよ。

君が死んだ。
こんなときですら僕は、こうやって文章を書こうとしている。まるで義務や使命であるかの様に。結局、他人が死んだって大したことは無いのだ。僕の人生に何かしらの影響を与えることは無いだろう。と、言うことも出来るのだが、この大きな悲しみが僕に何の変化ももたらさない、ということは無い。悲しくて、涙が出て、空疎で、どうして良いのか解らない。誰かにそばに居て欲しいけれど、そんな人はいない。文章を書こうとしてもいつもの僕の文体にはならない。本当に悲しいんだな、と改めて思う。これで僕の中学校の部活から、この世を去った人は二人目。前のときもすごく空疎な気持ちになった。そう言えば去年、彼の命日のお墓参りは僕が入院していたから出来なかった。僕も去年、死を意識しなければならない病気になってしまった。でも実際の死は重い。やっぱりみんないつかは死ぬのだ、とはいっても日常生活ではその気配すら感じることは無い。そしてこうやって突拍子もなくやって来る。どうして彼が?と思う。彼は一度ウィルス性脳炎で意識不明になって。一ヶ月くらい人としての行動が取れなかったんだ。話せない、動けない、視線すら自由にならない。そんな半分死んだような状態からわざわざ戻ってきたんだ。その後も後遺症で色々と苦しいことがあったらしい。発作とか、生活上の拘束とか。多分去年の夏、地元で集まった時にファミレスで二、三時間話したときに聞いたんだと思う。あの時は集まった三人が三人とも、とってもディープな病気を抱えていた。何でこんなにビョーキ持ちが集まってんのか、ってちょっと笑えた。そのときはこの中から若死にするような奴が出るなんて思っても見なかったから。どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?どうして?自分より年下の奴がこの世を去るなんて。親御さんより先に死んだりするなよ。そんな親不孝なことは無いんだぜ。病気で入院したって聞いたとき、そんなに酷いと思っていなかったから軽い気持ちでお見舞いに行って、面食らった。ベッドに横たわる君。あまりに痛々しさにそのとき僕と一緒に行った中尾君は泣いてしまっていた。そうそう、君が死んだってことを中尾君に電話したんだぞ、僕が。やっぱり電話口で泣いてたよ、彼。彼の病気を考えると、本当は知らせたくなかった。でもいつかは知ることになる。知るのに適切な時期、なんて僕には解らない/作れないから、今言うしかなかった。先輩を悲しませるのもいい加減にしろよ。他人の僕らですらそうだったんだから、親御さんの気持ちは僕らなんかに想像もつかない。それほど心配させて、迷惑かけて、こんなに若くして死んでいくなんて。身勝手だなぁ、もっと親孝行しなきゃいけなかっただろう?まだまだこれからの人生だった筈だろ。彼女だっていたって言うじゃない。置いて行くなよ。死んじゃったら、君に何も言えないじゃん、その娘。『愛してる』がこんな形で『愛していました』と過去形になってしまう。それを『愛しています』と進行形にしてみても、目の前にいない人を愛し続けるって、並大抵の事じゃないんだぜ。
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僕と彼の間に会った関係性とはなんだろうか?先輩・後輩。友情。なんだか良く解らない。こんなに泣くほど僕は彼を知っていただろうか?そして彼は僕にこんなに泣いて欲しかったろうか?僕らはどうしたら良い?これからの人生、本気で生きていくしかないよな。こんなときでもなきゃこれからの人生なんて考えない。きっと誰かを愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたりするんだろう。一瞬一瞬がもう二度と来ない。僕らは君にだって普通にありえたはずのそんな人生を生きるんだ。平凡で、取るに足らない人生かも知れない。僕を知っている近しい人が死んでしまったら、僕の存在なんてこの地球上から無くなったも同然。何処にも僕は残らずに跡形もなくなる。そうやって考えを巡らすと、死ではなく人生そのものが空疎な物の様に思えてくる。そしてその人生の終着点である死が同じように空疎なものとなってしまうのだ、と。死は何も生み出さない単なる喪失であるから空疎なのだ、と言うのでは無く。死も生の一部であり、それは生と対をなす物とのボーダーでありイベントであるのだ。決してそれ自体が空疎である訳では無い。そして僕はその“対をなす物”とはエターナル、永遠なのでは、と思う。永遠というものは大きすぎて、僕なんて小さなものには空疎でしかなく、意味が無いように思われる。永遠をキチンと捉えることの出来た過去の偉大な人々は死や悲しみに、空疎さを付帯させずにキチンとその意味を理解していたのだろう。その考えが、今、彼の死による悲しみにくれる人を癒す事の出来る唯一の物の様に思える。
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今日の文章はなるべく推敲せずに書きました。そのため“他者の死”というものが僕に与えた感情が生々しく表現されていると思います。それは生きた“死”を皆に知って欲しかったから。僕はこの日記で過去に死とその表現について言及したことがあります。そこで昨今メディアで描かれているのは去勢された死であると批判しました。 “感動できる”とか“泣ける”といった死の表現はあまりにもうそ臭い、と思ったのが批判の発端でありました。今回期せずしてこのような形でその批判に落とし前をつけるようなことになったことが大変悲しいです。実際に人が無くなったときの涙、は幾ら時間が経っても、何が起こっても、美談になることは無いのではないでしょうか?その程度は時間と供に薄らいでいくにしても、いつ振り返ってみても悲しみは襲ってくるはずです。実は清々しい涙などはなく、ドロドロとした感情が心に渦巻き、本来なら僕などに描き切れるはずも無いものが有ります。自分が誰か解らなくなり、何が起きているのか捉えるのも困難に成るような。
端整に描かれる死に憧れを抱くことはやはり間違いで、今日の僕の文章に触れ、死の痛ましさ、本人の奪われたその後の人生、残された僕らの心に残る喪失感、を読み取ることが出来たなら、皆様にはどうか世界中の命を愛して欲しい、と思うのです。本当に稚拙な文章で仕方が無いとは思うのですが、今日僕が書いているこの文章が、痛々しく、悲しげで、美しいことを願って。