Lesson#19-2nd;ダブルミーニングの訳

今日はとある女性と『ALWAYS 三丁目の夕日 』見てきました。すごい勢いで(そしてその勢いだけで)感想を書いてみます。
なんと言うか、細かい所で突っ込みどころは満載、ですが大筋は磐石な展開。大変素晴らしい映画ですよ。僕が何か褒めると大変うそ臭く見えるのですが、今日のは嘘じゃないです。だって、ケチつけられないんですよ、磐石過ぎて。なぜなら全部正解だからです。例え僕にぐっと来るものが無くてもですね、正解なんだから減点しようが無い。英作文みたいなものです。そして無理にしようとすると自分でも『酷いな』と思う言動を取らざるを得ないのです。それは批評としてバッテンですよね。しかも僕はあの時代を強烈に批判して、高校のとき小論文で大減点を喰らったので、絶対触れられない。鬼門ですよ鬼門。もしくはトラウマ。さらに“泣ける”という最近の日本映画の標準装備もちゃ〜んとあります。でも今回は僕は自分に一番来るであろうシーン(僕が実父とそういったやり取りをしなかったことからこのシーンが一番来るんですけどね、と言えばどのシーンかわかりますか?)の描写を公式HPで先に読んでしまったので、泣けず。一番…がそうなのですから、いわんや他のシーン、であります。一緒に見ている女性へのポーズ、として泣いてみようか、とも思ったのですが頑張っても泣けませんでした。“泣ける”に関連して言えばこの映画、年齢によって感情移入の深度が大きく違うと思います。あの当時の三世代、『中年(鈴木オート社長・茶川世代)』『青年(六子世代)』『少年(一平・淳之介世代)』(それぞれのブランクは10年くらい)がどっぷりはまれるのです(しかもそんな世代が『グスングスン』なんてなってるのを見て『ケッ!』なんていえる冷血漢ではありませんし、僕。あぁ、ズルイ・笑)。んでこのあたりに多くアカデミーの審査員がいるとすれば、先日僕が言及したアカデミーの異常な数の受賞も納得。その点ではこれ以下の世代がどれだけエンターテイメントとして楽しめるか?というのが“ヒット”のポイントだったと思います。話の筋はその磐石さ故、あんまり『すごいぞ!すごいぞ!』という所がありません。全部正解、なので賞も取れるんでしょうけど。
僕らの見に行った回は結構お年を召された方ばかりで“うるさいなぁ〜。そんなこと一々御夫人に説明せんでも解ってるよ、きっと”。と言うこともしばしば。で、この映画結局そういったオーバー40が気持ちよく浸れる映画ですね。なんかあの自体の(今日的な表現での)“痛い”ところがことごとく排除されてる感じ。『美化された思い出』的です。それはあったとしても感動への踏み台。“口減らし”なんていまどきの人向けな単語じゃないですよね。その単語が親の愛の裏返しでその後話は親子愛讃歌へ、と言う王道。う〜ん、磐石、ガッチガチ。期待を裏切りません。僕はここで子→親への愛が悲しみへ変化し表出すると言う究めて難しいであろう、そして今日的若者にはすごく共感しにくい感情を演じる堀北真希さんにアカデミー賞が授与された点については、前回日本アカデミーを批判しておいてなんですが、大賛成です。ここがキチンとハッピーであるのに対し、その後出てくる“空襲で家族が”+“サンタ”って言うのが唯一、一貫して『悲しい、切ない、可哀相』なのです。
そして鈴木一家が六子を青森へ送り夕日を眺めるシーンの『五十年後も…』の台詞に、“今日も昔と変わらず美しい”と答えるか、“いや、昔の方がずっと綺麗だった”と答えるか、“特に何も感じない”と答えるかでその人の『日本を憂う』度が測れる気がします。第一の回答は『まだまだ捨てたもんじゃない』クラスの認識。第二の回答は『もう日本ヤバイよ。海外行かなきゃ。ニュージーランドとか』クラス。最後は現在の一般的な若者、です。僕は“悲観”で二番、一緒に言った女性は“フツーに綺麗だった”という感想でした(これ、一番と三番のボーダーです)。
群像劇、ってのが米アカデミー作品賞受賞の『クラッシュ』と被りますね、とりあえずこちらも見ておりますよ、僕。こっちは全編通して繋がる、というアクロバティックさがハリウッドらしくいかにも映画、ですが『Always』はぶつ切りでTV的です。日本テレビが参入しているので、いつかTVで流すのを視野に入れての事なら解らなくも無いのですが、『クラッシュ』的なことが出来るのに『そこまでしていいのか?邦画で』なんて脚本家+監督が思っているのだとしたら彼らが日本映画に衰退を助長しています。多分そんなことは無くてよくよく考えた結果のことなんでしょうが。なんにせよ映画の鑑賞なんて、製作側と客側のガチのバトルなのです。そりゃ手を抜きゃ、いい勝負になんて、なりゃしませんよ。
今日の教訓はやっぱり映画も、就職活動もガチで、って感じです。スンゴイヘルシーな結論ですね(僕に一番欠ける物が容易に文章化される、と言うパラドックス・笑)。