Lesson#4;プタオの女は瞳が大きい

今日は先日の日記に登場したピアニスト(そしてデザイナーの卵)中尾君と映画に行きます。「クラッシュ」を。なんでもアカデミー最有力らしいので楽しみと言えば楽しみなのですが、どうでしょうか。最近映画自体にワクワクして見に行く、ってことがありませんね。なんと言うか、最初から批判的になってしまっているのが悲しいところです。高鳴る胸の鼓動を抑えながら映画館に足を運ぶ、と言う昔を懐かしむしかないのですが、きっと良い作品なら帰途の足取りが軽くなるのでOKですね。
そりゃね、同伴者が今僕が必死にアプローチかけてる女性とかならワクワクどころか、ドキドキどころか、勃起どころか(笑)、行き(オーガズムを迎える、って意味じゃないよ)過ぎて“涅槃”ですね(って結局落ち着いちゃってるじゃん・笑)。
僕の大好きな映画館で上映されるので行こうと思ったんですね、実は、アカデミーなんて関係なしに。僕にとって映画館っていう“夢の空間”にマッチしてるのはああいうところなんですね。それは“アメリカ”的な映画では無く“フランス”的な映画としてね。アメリカは大好きですけど、そこにルーツを持つとなぜかヨーロッパを志向してしまう、と言う一種のマザコンですね。ちなみにアメリカにとっての父は沢山いて、アフリカやアジア、中央・ラテンアメリカとありとあらゆる“地域”ですね。なんかさ「いろんな男とやりすぎてあんたの父親誰かわかんないのよね、私にも」って言う60年代、70年代を経てね、全世紀末、今世紀にかけてさ、DNA鑑定な感じでルーツを解析していくことが可能になったって言うか、別にきちんとした方法があるわけじゃないけど、そういう部分にメスが入れられるようになってきたってことなんだけどね。
アメリカ文化史の話なんて僕の手におえるところじゃないからもうこの話は専門の学者に任せるとして、 “アカデミー賞”を重要視しなくなってるのはその制度(アメリカで上映されて無いとノミネートすら出来ないんですよ・笑)に怒りを覚えるから、って言うのも無きにしもあらず(今回のこの“嫌悪感”へは12%程度の寄与)なのですが、もはや年間のアワードっていうものの意味性が薄れてきたアーカイヴィング時代に僕が生を受けたってことが大きい(85%くらい。後の3%は混沌です、ケイオス・笑。そういう領域を確保しておかないと精神的に不安定になっちゃうんで)ですね。今年封切の映画も、チャップリンも、小津安二郎も同列に評価してしまう(“出来る”では無く、です。これが評論の面白いところですね)ってことです、結局。TSUTAYAにいけばどんな映画のDVDも借りられて、お家のホームシアターで映画館さながらに、ってのが可能になったんですよ、今世紀になって。映画が映画館という儀礼の場から引き出された形になるんだけど、宗教儀式が一般化すると権威の失墜につながるんだけど、安易に“映画が堕落した”とは言えないんですよね。音楽はレコードの登場で、コンサートホール、カフェボヘミア(うわ、超局地的・笑)から引きずり出されたからipodってのが出現するのが早かったけど、昨今急速に普及率を伸ばす大容量HDDレコーダーはipod的な装置と言えなくも無いですよね。
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で今映画から帰ってきました。
エンターテイメント性は抜群、100点満点です。“おもしろい”映画ですよ。映画に可能なレトリックをふんだんに盛り込んでます。伏線という手法、最後には「もういいよ」って飽きるか、「え、彼の話はこれで終わりなの?」みたいに禁断症状のような強迫性の希求に行き着くか、と言うほどに濃いものでした(僕はギリギリのラインで後者でしたね)。それがこれであれはあっちでそっちはこれか、なんていう感じ(結局元に戻って来るの、ってこれネタバレなんだけど・笑)。“群像劇”ですからね、こういうところが醍醐味なんでしょう。
主題は人種差別と愛、だと思います。この二つが大きすぎて細かいところに目が行かなかっただけかもしれないけど。人種差別に関しては、日本と言う国に住む僕らには日常的には共感できないものだし、米国での“リアル”も知らないので、なんとも言えません。キチンと逆差別にまで踏み込んでいるところは、このタームを知らない人にはぜひ見ていただきたいところ。
愛、については作品中、多く見受けられるのが親子愛。人の親であり、人の子であれば、逃れられないその“愛”。それは無条件の愛を他に向けることの出来る資質を“人”が持っているのに、人種と言う壁が容易に遮断してしまう事実を描写したかったのではないでしょうか。愛することが出来るし、また愛して欲しいのに上手く行かない、ってのは男女間においてだけではないのだ、と思いました。愛って難しいですね。それを説く各々の宗教(この映画、三大宗教が登場します。って行っても“典型的アメリカ人”がキリスト教徒と仮定すると、なのですが)の開祖はやっぱりそれなりにすごかったと言うべきでしょうね。