イフニよりデスクトップを出品します。手渡し限定。

映画という芸術分野に僕が取り分け造詣が深いという訳でも無く(時間という評価指標を用いれば僕にとって最も造詣の深くなるべき芸術分野は“音楽”です)、このようにWEB上に自身の試論を発表することは、映画評論家・人類文化学者(ルーズ・ベネディクトが映画によって第二次大戦中敵対国民の心理分析を行っていた、と講義で聞いたことがあります)・映画館の切符切りのお姉さん(おじさん)にとっては大変な憤りを感じることと推察します。元々は昨日のドラえもんに端を発するこの論考、本日午後五時よりQ大理農食堂にて行われた僕と僕の友人Yシマ君との対談(と言うほどの物ではございませんがね。ただ一緒に飯食っただけ・笑)の内容がエッセンスとなっています。実を言うとその対談をテープ起こしして(彼にその事は内緒で)今日の日記とするつもりで会食をセッティングしたのですが、テレコ等の録音機材が無かったのでこうして僕が纏めた形の文章となってみなさんの目にする所となっています。彼のレスポンスが大きな役割を担ってこの文章は生まれたのは明白な事実として捉え彼を称賛すべきです。ですが、文責は100%僕にありここに述べられていることに関する批判・反論・誹謗・中傷・揶揄の類は僕へ向けられることを望みます(って言うかコメントをつけて欲しいだけ・笑。異論!反論!!オブジェクション!!!笑)。ではではお暇な人は↓(って言うか、大変失礼であることを承知の上で奏上致しますが、ここまで読んでいただいただけでお暇であるのは明白、ではないでしょうか?いつも通り前置きの長い僕です・笑)。

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映画におけるロマン(浪漫)ティシズム、とは。〜支配欲から逃れられない男達へ、ミックスメディアと言う側面からの問いかけ〜

ドラえもん、と言う漫画がこの国では自生の文化の一つとして存在しています。それはメディアミックスの走りとでも言いましょうか、書籍(漫画とは申せ、紙媒体であります)、TV(アニメとは申せ、…)、そして映画(アニメと…ってしつこい!笑)と、彼の青くて丸っこく愛らしい姿は様々なメディアにおいて目にすることが出来ます(僕はこの一連の作品、商業的な要請の影が最も薄いメディアミックスの一つ、と思っています)。僕個人はこの作品、大いに思い入れがあり客観的な言及はいたしかねる次第なので早速今回の論旨、映画というメディアの特性に関して、僕とY氏(←こう書くと図らずもあだ名に似てくる、と言う無意識の…長くなるので割愛・笑)とのやり取りが示唆する所を今回述べることが出来れば、と思います。
メディアミックスにおける媒体において多くの感覚を集中するものはTV、映画、と言った動画作品でありましょう。紙媒体は視覚、音媒体は聴覚、食媒体(←こんな媒体あるんですかね?笑。『わぁ〜、○○の宝石箱やぁ〜!!』とかは別ですよ・笑)は味覚、香媒体(香水とかね。あるじゃないですか、ノベルティーっぽい奴が)は嗅覚、そして感覚について語る以上、五感を意識して“触感”にも言及すべきでしょうが、これだけ適当な媒体が思いつきません。う〜ん、あるとすれば空気感とかですかね?と言うかメディアミックスはそこまで言及しないのでしょうか?動画(Movie)という媒体はこの中でも異色、目と耳という複数の感覚器が占有されます。で、そこでTVと映画が映像媒体としてあげられるわけですが(PCってのはものすぅっっごいメディアで、もうメディアミックスなんて概念では語れない怪獣“キメラ”みたいなもの。僕なんかにはどうしようもできない代物なのです。今は置いておきましょうよ、そうしましょうよぉ〜・笑+汗)、この国の映画鑑賞料の高さから考えると映画(DVDで見ようとも一応“料金”は発生しますので)の方がTVでの作品の視聴体勢よりも映画のそれは“真剣”であることでしょう(エコノミックアニマル、ジャパニーズですので文化ですら、経済指標で定量可能なのですよ。素敵な国だ・笑)。別に『映画の方が作り手も気合入ってるんだよ!!TVのドラマなんてくぅだら無いよぉお!!へっへ〜んだ凸(`へ´♯)』などと言いたい訳ではなく(実際そんな事言ってる人は幼児退行も甚だしい、屈折した日本式ロリータコンプレックスの権化、ですからその罰として去勢してしまいましょう。僕みたいに“半分”などという中途半端さでは無く“完璧”にね・笑)、文化としてこの国にどう定着したかの結果論です。作品の良し悪しとは完全に別次元の話。この国の男子(僕を含め)は、ゆる〜いアイドル番組が無ければその生(性)を維持できませんし。
占有された感覚が多いほどやはり作品への感情移入の度合いと言うのは大きくなってきます。たとえば音楽を聴きながら小説(もしくは漫画)を読むことが出来ますが処理能力に限界があり、それぞれの器官が各々別個の作品を処理している、と言うことはそれぞれの作品への感情移入の度合いは低くなるのではないでしょうか(ここの所、『人間の感覚器はそんな単純なものではないのですよ、ninomiya君』とやさしく諭してくれる生理化学の教授などいらっしゃいましたらご指摘くださいm(_ _ )m)。ここから僕が思うことは、逆に一つの作品に複数の感覚器で取り組むと言う行為が移入の深化に寄与するのでは、と言うこと。音楽や映像と言ったものは時間芸術で、放たれた瞬間空気の中に霧散してしまう(by E.Dolphy)性質のもので、文字媒体のように『時間を掛けてゆっくり』などと悠長なことは言っておられず、瞬間瞬間の処理、が大きな意味合いを持ってきます(VHS、DVDの出現は映像作品の再帰性の拡大、を可能にしましたが映画ファンがもつ本質的なロマンとは関係ないのです、多分)。ですから、同時多発的に現在進行形で複数の感覚器官が動員される鑑賞態勢は、ある種の強迫性を伴ったものとして、感情移入を強制するのではないでしょうか?ないでしょうかぁあ!!!(長くなってきて気が変になってきた、次の段落でまとめよう、絶対)。
映画という単体のメディアの持つ特性をつらつら書いて来ましたが、そこからその周辺に生きる人の映画へのロマン(ロマン)ティシズムが見えてくるような気がします。
・占有といった側面で作り手側の領域の広さが支配欲をダイレクトに解消する。
・“占有されている”ということに無意識に自己の支配欲を投影して、欲求が解消される。
映画ファンと言われる人には男性が多いように思われます。女性の中にも映画ファンはいらっしゃると思うのですが上記二点に関する体温差を男女間に見ることが可能ではないでしょうか?女性は『《映画》が好き』ですが男性は『“映画”が好き』なのです(すっごく解り難いことを承知でこういう表現をとりましたが微細な差異ですのでなんとも表現しようが無いのです・汗)。結局支配欲から逃げられない男達の像が浮かんできます。みんなバックが好きだ、騎乗位はちょっと、という感じでしょうか?(って個人的な性的志向を持ち出してどうするのでしょうねぇ・笑)。
“心酔する”という行為が快楽を伴った経験であることは、宗教的観点からも補強される、確かな事実です(よね?甘美でなければみんながブログ上で本、CD、果ては今日初めて飲んだ新発売のペットボトル飲料まで、の賞賛という自己の心酔の暴露を書き綴ってる訳が無いんですよぉ〜・笑)。
まぁ、僕もブッチ切りの“映画ファン”だ、と言うことで。