甑列島産の焼酎

夕日に照らされるマンハッタンの摩天楼。
路上に生きる者には朝は遅く、夜は早くやってくる。
高層住宅で暮らす者は長い時間、太陽の恵みを享受できる。
太陽ですら、金で買えてしまう国。それがアメリカだ。
チャールズ・F・ウィルツァー(1898〜1972)
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どうも、どうもこんにちは。結局片付けは出来ませんでした。洗濯物を畳み、片付けただけです(テスト期間中は洗ったものを取り込んだだけで山積みにして、その山からその日着る分を引っ張り出していました・笑)。
チャーリー・チャップリンの“キッドKid”、ウディ・アレンの“アニー・ホール”を鑑賞し『僕はまだまだ映画のことを知らなすぎる』と痛感しました。
“キッド”は煩雑な展開とその解決が快楽を生む映画が多い現代では、次の展開のわかる(どうやって彼女は自分の息子を判別するのか?という点と夢のシーンだけが僕にとっては新鮮でした)『わかり易い映画』でしたね、ストーリー上。でもそういった状況と音声すらない中(僕が今回見たDVDには、明らかに現代的な電子楽器によるBGMが付けられていましたが、やはりきちんとしたオーケストラが一度空気の振動を介して録音されたものの方が、この作品にはあっているような気がします。たとえレトロ趣味と嘲笑されようと)、彼が僕に与えたこの大きく爽快な感情は、月並みな言い方ですが“感動”ですね(他人の感想の中にこのフレーズが出てくると“それって結局どうなの?もっと詳しく説明してよ。それだけじゃあ、こっちに伝わらないよ”って感じで、あんまり良い感情を抱かないので自分も出来るだけ使いたくないのですが、こればかりは“見てください”としか言えません)。芸術において現代では出来ない表現形式というのが存在すること、が改めて痛感させられます。出し尽くされた表現とその焼き増し、が横行するのが結局芸術のアーカイビングの末路なのでしょうか?僕はヒップホップのサンプリングも、ルーブルの芸術品収集にも意味があり、素晴らしいことだと思っていますが、創造の脅迫から逃れることがいまだ僕には出来ていません。それは時代が進み、技術は高度化、人類にとって可能な領域は確実に広がっているのが、それでいいのか?人間が阻害されてはいないか?と言った類の疑問とは質を異にしているのであしからず(きっと理解されないんだろうなぁ〜、ただの被害妄想だ、パラノイアだ、強迫神経症だ、と言われそうですが)。
“アニー・ホール”については “やっぱり天才だ、と言われるような人でも恋愛はフツーなのかな?”と思わせる反面、ウディ・アレンが“フツーの恋愛をパロってる、もしくは(悪意の無い)大笑いで腹を抱えながら映像化した”のではないか、と僕に思わせます。劇中の彼がどれ程リアルな彼に近いのか(この表現が同一人物を分割する、と言う端から多重人格を疑うものであり、所謂天才についての精神分析で良く見られる所見に依拠する所が大きいものですね。ようはパクリ/表現の焼き増し・笑)、と言う僕には解決し難い疑問を生みます。きっと過去のインタビュー記事とかでわかるんでしょうけどね、探すのがめんどいんだな、英語もストレスかかるし。

髪はばっさりと、春に向けて短髪に。良いお店です。一年ぶりなのに覚えていてくれました。まぁね、僕の病気を暴露っちゃってるので、そりゃ覚えてるよな。いきなり『いやぁ、僕癌でね。抗がん剤の治療で今度入院するのぉ〜』なんて言われりゃそれはショックでしょうね。

同じビルディングにフランス料理店があったので今度ランチでも食べに行こうかと思います。戸口のメニューを見るとディナーは一番安いものでも貧乏学生にとっては“奮発”という表現を要する値段でしたので、今日は断念しました。その点、ランチはフツーに1000円くらいだったので。一人で、ってなんかね、寂しいから。素敵な女性、か家族、と言った“大切な人”と行きたいです。美味しい食事、に金勘定はいかにも無粋ですが申し訳ありませんm(_ _ )m。ですから“プライスレス(笑)”と思えるような局面での食事で使いたいですね。