ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デ・ラ・アスンシオン

どうもどうもこんにちは。今日は日中に文章を書いてマウス(っても、もはや日は沈みかけ、西日がガンガン差し込む僕の部屋はまるで林間学校でキャンプファイヤーに照らし出された好きな女の子の顔、のようにオレンジ一色です)。
え〜っと、テスト週間だというのにちかくのtsutayaでレンタル100円があったので『息抜きに』とDVDを借りてきました。ですが結局のところ、時間配分から顧みるに、勉強の方が生き抜きになってしまった感が否めません。超不真面目な学生です。こりゃ日本の未来も危ういし、ホワイトトラッシュよろしく社会の底辺で生きていくしかないですね。成り上がるためには、今からラップのスキルを磨いてフリースタイルのバトルでガンガン相手をディスる位にならないと駄目でしょうか?というEminemに心酔する21歳です(そんなこと言って特に好きではないですよ、Hiphop・笑。あの服装とかはね、なおのこと。音楽にはジャンル、としては可能性を感じますけど。バックトラック作れって言われればですね、過去の打楽器奏者としての経験を活かしてすんごいリズムトラック作っちゃうから、僕)。
で、なにを見たのかと言うと↓これ

『うお!!脚本が宮藤官九郎さんじゃないですか。木更津キャッツアイ大好きだったからね、僕。彼のことアーティストとして本当に尊敬してるし、見てみよう。そして自身の文化レベルの向上を…』なんていうちょっとセンス良さげな大学生、な気持ちは微塵も無くて『うっは〜、田中麗奈かわいい〜(はぁと)。』って言う隠れアイドルオタクの屈折した愛情、によって借りてきました。だってぇ〜、ビデオの分類も『アイドル』ってなってたしぃ〜、良いじゃん(←ガングロタマゴちゃん風で・笑。皆様おでんくんって見てますか?リリー・フランキーさんの。まだの方は是非)。まぁ、腐っても“愛情”ですので、この気持ちを『キモッ!!』って言われてもいいのですが決して『けしからん!!』ってことは無いので、社会的に、道徳的に、そして僕の精神衛生上もオケーオケーでしょう。
スカートが結構短くてムフ〜!!たまらん!!、なんて悶絶しきりで鑑賞していましたが(二年前の作品ですので、彼女の実年齢も役所にマッチしていてすごいね、恋しちゃうくらいでした。実際恋してますが・笑。僕だったらあんなに可愛い彼女が居たら浮気なんて絶対しませんよ・笑)、この作品でも彼(宮藤官九郎さん)は“死”を取り上げていますね。工藤さんが“死”をどのように捉えていらっしゃるのかは知りませんが、その描写から僕が勝手に推察する彼の“死”に対するスタンスは大変共感がもてます(彼のインタビューや、エッセイと言った類のものに目を通したりしていないので、本当のところはわかりませんが。でも結構シャイな方だと思いますので、そういった類の話はあまりなさらないような気がします。“シャイな人”なのかどうかも知りませんが・笑)。前述の木更津キャッツアイに関してもそうですが。僕はですね、一回“死”というものに接近したので一般的な同年代の人間からその捉え方が乖離しているかもしれませんが、現代は“死”があまりにも去勢された概念のように扱われているような気がします。まったくインパクトの無いものとしてね。あれはすごい喪失感を突きつけてきて、悲しいしすごく辛い事なんです。ほんとに筆舌に尽くし難いって言うものなので僕がここでどう表現しようとも、表現しきれない事象なんです。でもね、なぜか知らないけどそれも乗り越えられちゃうんですよ人間って、不思議。自然界の尺度から言えば人間はすごく弱い動物(熊と格闘して勝つような武闘家、などは除いて)ですし、精神と肉体の相関も強いですからあんな辛い目(近しい人の死)に遭っちゃったらフツーにそのまま死んじゃいそうな気がします(摂食不良だとか、ストレスによるひどい内臓疾患だとか。“断腸の思い”って言葉の語源を皆様お調べくださいませ。泣けてきますよ・涙)。きっとそういった苦しみの克服、を人々になさしめるのは彼(しつこいようですが宮藤官九郎氏、です)が描く人々の明るさ(←この表現適切ではないですね。ダークサイドの対極、というような意味合いのことが言いたいのですが誰かそういう単語知りませんか?)なのでしょう。僕が死への近接によって得たところもそういう感情の強度、ではないかと思います(要するに躁病のように明るくなったと。そんな病気があれば、ですけど・笑)。
“去勢された死”というか“死”そのものについて縁遠くなっていく我々現代人(と言うか現代“日本”人、でしょうか?神道において“死”がどのような概念として説かれているのか知りませんが、仏教のそれは一応仏教系の幼稚園の卒園児として馴染みがあるので、現代日本人が捨て去った宗教にかなり“死”を捉えるキーがありそうです。と言うか“死”という恐怖に打ち勝つために各々の宗教が存在するのならそれは必然なのですけど)にとって、彼の描く“ドラマ”は大変有用である、と思います。

たったこれだけの文章を書くだけでもう外は黄昏を過ぎてしまいました。山際は“母なる太陽の残していった滋味あふれる(物理的)温かみ”に溢れたたおやか橙色、空の上方は“冬の大気の持つストイックな(概念的)冷たさ”が持つ清涼感に満ちた深い青、となっております。これまた僕なんぞには表現し得ない景色がもっとも美しい時間帯の一つ、であります。地表の暗闇の中の人工的な白色光、もこの美しさの演出に一役買っている(それは自然光とのどぎついまでの対比、をもって)、と言うことがどんなに都会的であったとしても僕らは大宇宙という自然の一部でしかない、と言うことを実感させます。それでは皆様も可能な方はそういった景色をお楽しみください。僕は今あまりの美しさに涙が頬を伝うのを許してしまいました。