で此処で僕が言いたいのは個体としての人間のバイオリズムよろしく国の全体的もモードとしての“躁・欝”も繰り返すってことですね。減衰振動のような曲線を描くのか、共振し発散していくのかはわかりませんが、一定の振動ではないでしょう。これは常に一定の値を示すことの次に安定したシステムになってしまいますから。
僕は大学生なので、こと“若者の恋愛”の標準(と言うものがあればですが。絶対的な物ではなく数値的平均に近いを指します)に関しては敏感に反応する年代に身を置いているのでこれについていくつか目に付いたことを述べましょう。恋愛について語る際、“性(ポルノ、と言ったものも包括する)”についても語らなくてはなりませんが如何せん資料不足ですので今は何も申しません(僕の友達には外付けハード・ディスクを動画ファイルでいっぱいにしている人、も居ましたが体系的に日本のポルノ史をアーカイビングするようなものではないでしょうね。逆に個人のポルノ史、ではありそうですが)。
そして、恋愛の場ですが僕の周りには“M”の人が多いと。これは“マゾヒズム”と言うほどハード・コアなイズムではないのですが、二元論的なはなしの『受身』と取っていただきましょう。これ欝の一症状のように思えてなりません、僕には。主導権の拒否、抑圧、と言ったタームがいかにも“欝”的に僕の目には映ります。
逆に大っぴらに“S”と言う人はいません。“M”であることは公言できるのに。僕は生粋の“S”なのですが(この前も後輩に久しぶりにあったらいきなり蹴りを入れてしまいました。ほぼ無意識に。すまんYu-To m(_ _ )m)、これやっぱり“S”であることにエネルギーが必要だからでしょう。いつ電池が切れちゃうかわかんない、見たいに溜め込む“M”と、溢れ出ちゃうよぉ〜(´д`;)ハァハァ、って感じの“S”。
欝とSMを結ぶのは暴力的ですが行動から性格を規定しようとすると、そういった行動が取れなくなっていると言うのは、この世相が“欝”であり“M”であることが確認できるのではないでしょうか?
行動を“S”的にとる、と言う意識が変革をもたらすのであると認められるなら、暴力的SEXのアジテーションのための音楽・文章・映画・料理・絵画…etcが必要でしょう、この国には。