結局面白く無い文章

またこんな時間に日記に着手しておりますが今日は“起抜け”ではありませんよ。眠い目をこすりながら、と言うのは同じですけど。あっ、いまあくびも出ました。
これから実家に帰ろうと思っているところなんですが、結局大して部屋も片付かず、電車の座席予約もしておりません。一昨日(と言っても、あの後から非日常的な生活リズムに突入し、一般的日にち感覚では到底計量しがたい感覚的時間を過ごしております)のサークルの忘年会において、久しぶりに二次会・三次会に参加。大量のアルコール摂取と徹夜したことから今日一日はゴロゴロ・グダグダでした。全然酔えなかった、のは昨日の日記にアップされている私信の“愛を乞う文(フミ)”に書かれている理由により。きっと今日一日ベッドから抜け出せなかったのは二日酔いなどという生易しいものではなく(人生において二日酔い、と言うものは一度しか体験したことがありません。意外にアルコールには強い方なのです)、もっと混沌としたものが僕の心身を満たしていたからでしょう(それとただの睡眠不足・笑)。
昨日の日記にある私信を書いた後(ってことは日記を書いた後、ってことになりますね。日記がもう日記の体をなしていないのでこんな変な文章になってしまいます。そういう統合不全な人間なんですよ、僕は)、またしても眠りにつき再び起きたのが夜中の12時少し前。それから飯を食い、サークルの掲示板用の文章とドイツの以前お世話になったホームステイ先のホストファミリーへの英語(最近ドイツ語に触れる機会がなくなりもうこの言語でしか意思疎通できないのが、本当に悲しいところ)でのニュー・イヤー・カードを書いていたらもうこんな時間でした。
僕は英語で文章をつづるとき(そんな機会も少ないのですが)、いきなり英語で書き始めます。たいした英語力ではないので(TOEIC680点)、いきなり書き始めるのもどうかと思われるのですが、最終的に英語で出力されるなら変に段階を踏む(日本語で一度下書きし、それを翻訳するという手順)事なしに文章を生成した方がナチュラルなのではないのかなと思うわけです。“翻訳”という先人の残したツールによって(このツールの、異言語間コミュニケーションと言う場において発揮されるその素晴らしさ、には僕からも惜しまず激賞をお送りしたいのですが)、限りなく人間らしい意思疎通が要求される今回のような場合、この“翻訳”過程はある種の人間性の疎外を感じさせます。しかも翻訳はその道で熟達した人がするからこそ美しさやその他諸々の良質なものが付加されるのであった、僕みたいな人間が許されるべくもなく、このような場合は不完全がむしろ合っているのではないでしょうか。
何もここでは“翻訳”に対する批判を展開したいわけではなく、素人が中途半端にその手法を持ち出すことであまり美しくない文章を生み出す、と言う可能性を示唆しておきたいのです。
今日はこれ以上書いても面白くなりそうに無いのでやめておきましょう。反面教師としてこの文章はアップしておきますが。明日この文章を読んで僕がもっと面白いことを書かなければ、と痛切に感じるためにしか今日の日記は機能しないでしょう。本当は“翻訳”に絡めてテクノロジーと音楽に対する僕の試論というものを書きたかったのですが今日はそんなところにまで脳内の糖分を回せないようです。ではそれは後日の僕に任せることにして、皆様さようなら。