プロローグ

また一人で飲んでる。会社の同僚達との集まりを抜け出してまで。今店のBGMが変わった。聞いたことのある曲なんだがなかなか思い出せない。ビ・バップ期のジャズのはずだ。この特徴的なソロは覚えている。が、誰だったっけ?
二杯目のバーボンも後残りわずか。そろそろ出るか(なんせ、明日も普通に仕事なのだし)、もう一杯頼むかどうしようかを考え出し始めた頃携帯がブーブーと揺れ始めた。サブ・ディスプレイに映るのは“江口 沙紀”。この人から電話がかかってくるのは滅多に無い、そして大抵が悪い知らせだ。なんにせよ出るしかない。
『もしもし。』
『ごめんなさいね、田辺君。いきなり。また由紀がね…。』
やっぱり、である。最近は無かったからもう大丈夫だと、勝手に思い込んでた僕はきっと甘かったのだ。軽い眩暈。感覚が薄らいでいって電話の声は聞こえてはいるんだけれどなんとなく頭には入っていかない。最初の頃は彼女(沙紀さんの方)も涙声でかけて来ていたのだが、ここ何回かのこの手の電話では回を重ねるごとに声のトーンも落ち着いてきている。それが逆に僕に非現実感を喚起させる要因ともなっているのではないだろうか?
『で、今どちらに』必死に頭の中のものを振り絞って聞いてみた。
『○○病院に。』
『では、今からそちらに向かいますんで。』
『本当に申し訳ありません。』

僕が悩んでいる間にも何かは始まりかけているし、何かは終わりかけていくのだ。

とりあえず勘定を済ませ、表へ出る。一瞬どの通りに出れば一番タクシーがつかまり易いか思案した。迷っても仕方が無い、一番近い大通りへと急ぐ。最近は運動もしていなかったから、三ブロック走っただけで僕の息は42.195キロ完走したランナーのそれよりひどかった。思ったよりもタクシーは早くつかまり、『○○病院。』と少し陰気そうな運転手に告げる。
車中は無言だった。運転手も運転手の方で“こんな時間に病院に行く客なのだ、きっと何か良くないことがあったに違いない”とでも思っていたのだろう、最初に行き先を聞いたとき以外、後ろを見ようとはしない(ルームミラーでちらちらとバックシートを伺っているのには気付かない振り、だ)。あんな事態が起こっている時なのだから、僕だって“楽しい会話”なんて気分じゃ無かったのだが無性に何かを話したかった。でも僕は言葉が、たとえそれに意味が無くとも、時間と空間を埋めていく瞬間を感じたい、と思っていた。
『最近はタクシー業界も景気が良いみたいじゃないですか。きのうニュースでやってましたよ。“プチ・バブル”だって。終電が終わると、捕まえるのも難しいとか。』
出し抜けに僕が喋りだしたので、彼(運転手)は少し狼狽気味。
『ははは。そりゃ、東京とかの話でしょう?お客さん。ここいりゃじゃそんなの、関係ありませんよ。ははは。』
その後も二、三分話し続けたと思うが、無論内容など覚えてはいない。運転手の無駄な、引きつった笑いだけが思い出されるだけだ。ただ望むものが手に入り、僕はその会話の間は安堵に似たものを感じていたようだった。
『着きましたよ。』
僕はその一言で現実に引き戻された。