Lesson#252;The Devil is in the Details.

人は多くのときをすごした分だけ、時間の大切さを知り、より多くの時間を求めるのだろうか。

変なトラックバックが付いていますが、何でしょうか、こういったものを見るにつけ、消費と生産について考えさせられます(マジかどうかと問われれば、もうものすごいガチ、それこそガチガチ。その反面、全編にわたる不条理ギャグの嵐です)。僕たちは安易に消費や生産という言葉を使いますがそれが何を対象とするのかについては無自覚です。景気を良くするには消費を刺激するべきだ、などと政治の場面では語られることが多いですがそこで消費されているのは金銭であります。
しかしここで指し示される経済的な権利の行使は消費でしかないのでしょうか?
上質なコーヒーのもたらす芳香は、一冊の本がもたらす金言の数々は、一本の映画の流させる涙は、一枚のCDが満たすヘッドフォンの中の空間は決して価値の無いものではないでしょう。これらに、広く一般の人々にとって同様の効果が得られない、と言う限定性が見られるだけで価値が貨幣から別の形に移行したに過ぎない、と表現することが少し奇異に思われることこそが拝金主義である、と思います、字義通り。そう言うならば香りに、言葉に、映像に、音に価値を見出し、それを追い求めることが拝香主義、拝言主義、拝映像主義、拝音主義であると言えますが、ぜんぶひっくるめてこれらがフェティシズムでありやはりある種の宗教性を負ってしまうのはしようの無いことでしょう。
消費しないことが、経済的権利の行使の抑制・遅延でありストイシズムを標榜する行為なのか、守銭奴と言われる拝金主義の行き着く先なのかわかりませんし、それはおのおのの心の持ちようであります。
確かにどのような形態の価値へとも変容する可能性を有した金銭の魅力たるや相当なものであり、強烈な万能感を私たちにもたらします―コントロール可能であるが故に火炎への信仰心は近年皆無ですし、試験管から生み出される生命の前に母性の聖性は弱度が強調されてしまいます。ですがこの万能感は幼児性があまりに強く、短絡的で、非常に危険な一面を持っています。この信仰の先には―過度の信仰はどれもそうであろうかとは思うのですが―悲劇が待ち構えています。

地下鉄の広告で、消費者金融と多重債務整理を促す司法書士事務所が隣り合うのは、ナンセンスギャグです。